山田 ゴロ
(やまだ・ごろ / YAMADA・GORO)
山田ゴロ / 漫画家
1952年12月23日 岐阜県出身
1971年 漫画家 中城けんたろうに師事
1972年 石森プロ入社 石ノ森章太郎に師事
1975年 デビュー作・「人造人間キカイダー(原作・石ノ森章太郎)」
以後石ノ森森章太郎のコミカライズを多く手がける。
ヒューマンアカデミーマンガカレッジ講師
学校法人江戸川学園 江戸川大学講師
Japan Manga Artist Club 代表
公益社団法人 日本漫画家協会参与
一般社団法人 マンガジャパン所属
デジタルマンガ協会 事務局長
J-Mac
https://www.i-jmac.com/member/yamada-goro/
マンガジャパン
http://www.manga-japan.net/
マンガ家の山田ゴロと申します。
ぼくがマンガ家になりたいと思ったのは、まだ小学5年の時でした。
明くる年には東京オリンピックが控えていました。
普通ならば、マンガが好きになると言う事は「読む」事なのですが、ぼくは「描く」事の方に心が動きました。
いつも行く床屋の待合にマンガの本が沢山あって、その中の手塚治虫先生のジャングル大帝が切っ掛けになりました。
そこにはジャングルの中で動物たちが大合唱する場面があり、ぼくは、見ているだけで心がウキウキしてきました。
そして、『ぼくも、こんなマンガを描いてみたい。』、、、そう思ったのです。
ところが、当時はまだマンガ家という職業が一般的に認知されていず、ぼくが子供心にマンガ家になりたいと言ったとき、
「マンガなんかで飯は食えんっ」と、父は笑っていましたが、母はぼくの描いた下手くそな絵を、ずっと褒めてくれました。
ぼくが、大人になっても諦めず、ずっと描いていられたのは母のおかげかも知れません。
そして、気がついてみれば、ぼくはマンガ家になっていました。
マンガ家になるためには、
大きく分けて二つの事を学ばなければなりません。
それは、絵を描く事と、お話を作ることです。
これはすごく簡単で、誰にでも出来る事です。クレヨンを持たせれば、3才の子にも出来るでしょう。
しかし、自分ではない他の誰かに、自分で描いた絵とお話を見て貰い、読んで貰い、理解して貰うためには、かなりの努力が必要になります。
現在のぼくは、マンガを描く事から教える事に軸足を換えています。
大学でも、マンガを教え始めて もう11年目になります。
他にも、日本漫画家協会会員、マンガジャパン会員、デジタルマンガ協会事務局長、J-Mac会長など、マンガに携わる仕事をさせて頂いています。
ぼくがマンガ家になりたいと思った頃には、今の時代のようにマンガの描き方を教えてくれる学校などありませんから、そうした事は長い時間をかけて自分で修得していくしかありませんでした。
時代を経て、マンガは日本の文化と言われるようになりました。
趣味や遊びの戯れ言のように扱われていたマンガや昔のマンガ家にとって、まるで夢のようです。
そして、今はプロのマンガ家とセミプロのマンガ家とアマチュアと、その境が曖昧になりつつあります。
その要因が、コンピュータとネットの発達でしょう。
誰もが、自分の作品を簡単に発表できる素晴らしい環境が整っているのです。
しかし、その作品の多くの質は、プロもアマも大変低下していると思いませんか。
これはあくまでも、個人的な感想に過ぎませんが、それらの作品を見て、殆どが自己満足になっているのではないのかと思うのです。
先にも書きましたが、自分ではない他の誰かに、自分で描いた絵と、お話を見て貰い読んで貰い、理解して貰うためには、かなりの努力と意識改革が必要になります。
この努力の積み重ねは否応なしにさせられますが、問題は、意識改革です。
「読む側」から「描く側」になったという自分の立ち位置の意識を変えない限り、創作された作品の多くは、その作者の自己満足の産物になってしまいます。
自己満足ほど始末に負えない物はありません。
なぜなら、誰かが「分からない」と言っても、描き手は、どうして分からないのかが分からないからです。
作った本人ですから、分かるのは当然ですが、相手がどうして分からないのか分からない。
ぼくたちマンガ家は、必ずこの自己満足の壁にぶち当たります。
そして、その壁を乗り越えられた作品が、多くの人に受け入れられ感動をさせる事ができるのです。
その自己満足の壁を打ち破り超える手助けをしてくれるのが、編集者なのです。
しかし、ネットには、その編集者が存在しません。編集者がいなくても、自由に発表出来てしまいます。
それでは、面白い作品を描く事は難しいですね。