藤野 彰
(ふじの・あきら / FUJINO・AKIRA)
イースタン ネットワーク・オフィス フジノ代表。1951年3月28日生まれ。1980年に国連に採⽤され、ウィーンに通算25年、その間バンコクに5年、赴任。主に⿇薬等の国際規制に関わる。国際⿇薬統制委員会(INCB)事務局次⻑、国連⿇薬・犯罪事務所(UNODC)東アジア・太平洋地域センター代表、UNODC事務局⻑特別顧問などを経て、公益財団法⼈ ⿇薬・覚せい剤乱⽤防⽌センター理事長、一般社団法人 国際麻薬情報フォーラム代表理事、内閣府認証特定⾮営利活動法⼈ アジアケシ転作⽀援機構理事。エバーラスティングネイチャー代表理事。
プロローグ
1980年夏、某日午後、私はウィーンの空港に降り立った。国連職員として赴任するためである。その後、通算して25年余りをウィーンで勤務し、その間5年近くにわたってバンコクでも暮らした。しかし、そもそもはジュネーヴにある国連職員の空席に応募したはずであるのに、ウィーンから送られて来た採用通知には驚きもしたが、実は、その少し前に設立された「ウィーン国際センター」に様々な国連の部署が移っていたのだ。だから、ドイツ語圏に行くことになるとは考えてもいなかったし、これほど長く居ることになるとも想像しなかった。
それから橋の下を沢山の水が流れて、しかし30有余年ぶりに日本へ帰ってみれば、過ぎ去った時は、あたかも瞬く間であったかのような思いが、少なからずある。
国連での仕事について
最初に赴任したのは、国際麻薬統制委員会(INCB)事務局というところであって、此処に最も長く居ることになった。この委員会は国際条約によって設立され、各国が国際麻薬規制の諸条約の規定を遵守しているかどうかを監視し、またそれら条約の義務履行を促進するという、「準司法的」機能を持つ。従って、条約上、その技術的独立性は国連経済社会理事会によって担保される。INCBの前身は国際連盟時代に遡るが、ウィーン国際センターが出来るにあたり、ごく最後の段階でジュネーヴから移転することになったようである。幾度かの機構改革を経て、この事務局は現在の在ウィーン国際機関のひとつ、「国連薬物・犯罪事務所(UNODC)」の中にある。
そのINCB事務局に応募することになったのは、留学していたカリフォルニア大学ロスアンゼルス校(UCLA)大学院から母校国際基督教大学(ICU)の大学院に戻る途中、ニューヨークの国連本部でインターンとして勤務した際に、国連日本代表部でその空席情報を教えて貰ったからである。「麻薬?麻薬のことなんか知りませんよ」というのが私の最初の反応だったが、「いや、国際法専攻者が要ると書いてありますよ」とのことであった。調べてみれば、著名なフランスの国際法学者リュテール(Reuter)教授が、当時のINCB委員長であり、その事務局での職務内容は挑んでみる価値があるものと思われ、そして幸いにも採用された。かつて、今は亡き教授が、「あなたは政治的な要素の多い他の部署ではなく、この極めて技術的な任務を持つ事務局で、国連の仕事を始めることが出来たのは幸いであった」といった意の話をされたことがある。麻薬のことなど何も知らなかった若者は、その国際規制のある分野で、権威とされるまでに長く居ることになってしまった。
その後、「UNODC東アジア・太平洋地域センター」代表として異動し、5年ばかりバンコクに移り住むことになる。33の国と地域をカバーするこの地域センターは、UNODCの任務である、国際薬物規制、組織犯罪と国際テロ対策の諸課題を扱って、フィールドに出る機会も多くあった。例えば、乾季でなければ車で辿ることさえ危険な「黄金の三角地帯」(後述する)の奥地であり、インドネシアでは津波に襲われ、中央政府との平和協定が結ばれたばかりのアチェ州であり、メコン河流域の辺境の地などであった。
その後また、ウィーンのUNODC本部に戻り、定年退官して30年ぶりに一旦日本に居を移した。思い起こせば、国連職員として実に様々な国を訪ねたのだ。黄金の三角地帯の奥地など以外にも、アフガニスタンに足を踏み入れ、アンデス山脈の奥地に飛び、太平洋地域、アジアの各地を訪れ、またアフリカの幾つかの地も踏んだ。 同じ国を幾度となく訪問したことでもあり、いつだったか数えてみれば足を踏み入れたのはただ68ヶ国で、世界の国と地域のうちせいぜい三分の一ばかりにすぎない。それでも色々な国の首都で、地方の街で、また辺境の地で、かけがえのない多くの出会いがあった。
始まりの時
思い起こせば、半世紀近く前、8月の光の中、あの日我々はサンフランシスコに着いたのではなかったか。だが古ぼけた手帳を繰ってみれば、その日は雲が重苦しく垂れ下がっていたのだ。あの時、夏の赤茶けて乾ききった大地は、至る所が緑に覆われる春のそれとは違い、なにやら茫洋たる思いを抱かせたようでもある。その暑さと明晰さはしかし、確かな光彩を放っていたはずだ。夏は熟していた。1968年、アメリカン・フィールド・サービス(American Field Service:AFS)の交換留学生として初めて渡米した、17歳の年であった。
AFSのことを知ったのは、当時の高松宮杯(現高円宮杯)全国中学校英語弁論大会に出た当時のことではなかったか。後に同時通訳者となった先輩から最初に聞いたように思う。そして高松宮杯全国大会で出会った友人の幾人かはAFS生となり、高校時代にまた会うことになったし、そのうちの幾人かは大学の時にこの弁論大会を運営する協会で再会して、それが今に続いている。今、私は期せずして、この大会を運営する日本学生協会(JNSA)基金の理事長を務める。
振り返れば、高校での留学が後に私が辿った道の全ての始まりであった。今では、そのとき起こった様々な出来事のそれぞれが記憶に蘇ることは少なくなってしまったけれども、友人らと過ごした遠い夏の日の木陰や蜂の羽音に、また遥かなる時の流れに思いを馳せ、燦爛たる壮烈さで炎上していたカリフォルニアの陽を思い起こすとき、時間は消える。後にUCLAの大学院に籍をおいて、カリフォルニアに再び住んだとき抱いた思いも、また同様であった。
そして、ウィーンに国連職員として四半世紀余り赴任することになったのは、自然の成り行きであったかと思う。ウィーンでは、止まっていた静寂がふと流れ出るのを待つように、季節が移り変わった。夏はいつも足早に通り過ぎたし、秋が過ぎ行けば、晩秋でも我が家の前の森は、未だ寒さに疼いている風ではなかった。長く重苦しい、凍てついた氷の世界を作る冬には、森で忙しそうに立ち働いているキツツキを見掛けることはあっても、他はおしなべて静かであった。そして突然、春にとって代わられるようであった。
これほどに時が過ぎ去ってみれば、もはや断片的な点景が記憶の片隅から浮かぶだけになる。脈絡もなく、さしたることもない事柄が細部にわたってふと蘇ることあり、人生の重大事であったはずのものは、その風景と感銘を受けた度合いのみが記憶の片隅に残り、細部は消え去ってしまったかの如くである。
世界の各地で
こうして国連職員となり、国連の仕事の中でも特殊な分野である、国際薬物規制に携わった。そして、様々な地に足を向けた。
「黄金の三角地帯」とは、タイ、ラオス、ミャンマー3ヶ国の国境がメコン河で接する山岳地帯のことをいう。タイ国境から奥地に入ったことがある。乾季でなければ車で移動などはできず、それでも穴だらけの道を辿るのだが、例えばミャンマーではその正規軍だけでなく、地方軍閥の兵たちの護衛も必要なのであった。
黄金の三角地帯では、今なおアヘン採取のためのケシの非合法栽培が見られる。しかし、国連とともに歩んだこれらの国々の、特にここ四半世紀を超える「法執行・取り締まり」と、持続しうる「代替開発」の絶え間ない努力により、非合法栽培はきわめて減少してきた。代替開発とは、山岳地帯の貧しい農民たちが、ケシ栽培でなく、他の道で生計を立てられるよう、自助努力を支えるための事業である。そもそも、儲けているのは、アヘンそしてそれからできるヘロインを密造し密輸する連中であって、貧しい農民などではない。奥地で出会った村びとたちは、ごく懸命に生き抜いていた。今日、世界で最もケシが非合法に栽培され、そこでヘロインが造られ、他の国へ密輸されているのは、アフガニスタンである。
アフガニスタンには2度ばかり出張した。かつてウィーンで私のスタッフだった男が、今でもカブールに赴任している。薬物に関して法執行・取り締まりの分野での各種プロジェクトを扱い、そしていつも5キロはあるという防弾チョッキを着込んでいる。我々も防弾仕様の車で移動し、勝手な外出は許されず、毎日、携帯無線による定時報告が課せられる。我々の重要なカウンターパートであり、私とも毎回会ってくれた当時の内務副大臣は、2度の爆破の企てによって暗殺された。かつてのスタッフからの連絡で知った。
アンデス山脈の奥地にも飛んだ。輸送機で、コロンビアの奥地にある基地に向かえば、武装警官隊の訓練が行われていた。大型ヘリコプターでさらに奥地に飛んだところ、そこではすでに武装警官隊が展開していた。コカインを造るため栽培されていたコカの木の一大群落を根絶やしにするためであった。彼らは非常に緊張していたし、上空には機関銃を外に突き出した2機の小ぶりなヘリコプターが旋回していたのだ。ここでは、前述した「代替開発」プロジェクトなどを行うことは困難を極めた。反政府ゲリラの支配する地域だからであった。
ナイジェリアに出張した時、取り締まり当局の長は陸軍の将軍であったが、我々とともにへき地に飛んだ際には、前後を軍隊の武装した車列が警護した。今、アフリカの各地、これまで見られなかった土地において、日本でも乱用が深刻な問題となっている覚せい剤の密造工場が摘発される。ごく純度の高い覚せい剤が密造され、そういう高くつく覚せい剤が売れる所、例えば日本へ密輸されているのだ。
それはアジアでも同じである。もう何年も前のことになるが、太平洋の小さな島国フィジーで覚せい剤の密造工場が摘発されたことがある。その時点で、世界最大規模の工場であった。タイに赴任していた頃、インドネシアで、これも大規模な覚せい剤密造工場が、何カ国もの取り締まり当局の合同捜査によって摘発された。ヨーロッパ人、アジア人が関与しており、私が出張したのは摘発直後であったから視察に行ったのだが、あたかも007の映画に出て来そうな秘密工場の造りであった。その頃カンボジアでも、初めて覚せい剤の密造が摘発された。摘発された密造所(ほとんどバラックであった)に残された化学物質の処理のため(雨季の来る直前だったから急がねばならなかった)、防護服や処理専門家を国際的に手配するのに、我々は苦労することになった。
国連テレビの黄金の三角地帯での取材に同行したことがある。メコン川では、流域諸国の合同パトロールなどが行われるが、それはごく細い伝統的なボートにエンジンを付けただけのものであり、我々も乗り込んだのだが、これで襲撃されたらひとたまりもないと思われ、実際に殉職した当局者もいる。
そして、世界のどこでも、若者や子供が常に狙われている。世界各地で、薬物治療施設や刑務所などを視察する機会を得た。往々にして人の溢れる刑務所などの劣悪な環境に加え、収容されているのは若者や子供たちが多いのに気づかされる。そういった場所で質問してみると、いつも同じ答えが返って来る。薬物乱用がこんなに危険なものだということを「知らなかった」、そして、「友達に誘われた」というのだ。今は、日本でも変わりがない。
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知らない国を訪ねると、できる限り市場に行ってみることにしている。そして先ずローカル新聞を手に入れる。そこには、国際的には詳しく報道されることのない、それぞれの民の固有の生活が見える。それぞれの地で、そこに合った対処が必要なのだと分かる。そして、様々な地で、かけがえのない出会いがあった。