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第1回時を超えて四海の波を揺れ動かす 〜国連職員として世界へ〜

藤野 彰

(ふじの・あきら / FUJINO・AKIRA)

藤野  彰の写真

イースタン ネットワーク・オフィス フジノ代表。1951年3月28日生まれ。1980年に国連に採⽤され、ウィーンに通算25年、その間バンコクに5年、赴任。主に⿇薬等の国際規制に関わる。国際⿇薬統制委員会(INCB)事務局次⻑、国連⿇薬・犯罪事務所(UNODC)東アジア・太平洋地域センター代表、UNODC事務局⻑特別顧問などを経て、公益財団法⼈ ⿇薬・覚せい剤乱⽤防⽌センター理事長、一般社団法人 国際麻薬情報フォーラム代表理事、内閣府認証特定⾮営利活動法⼈ アジアケシ転作⽀援機構理事。エバーラスティングネイチャー代表理事。

100年の時を超えて

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100年余り前、1900年代の初頭、国際的な麻薬規制の動きが生まれた。この時代では麻薬密輸業者は現在のように自分たちで麻薬を密造する必要などなかった。なぜなら、製薬会社が医療用として合法的に製造した麻薬を、正規の国際流通ルートから「横流し」すれば事が足りたからである。医療目的の合法的な麻薬に対しても、輸出入許可証の制度などなかった当時は、世界のどこの国からも簡単に横流しすることができた。

麻薬の密輸をしようとする者たちは、例えばヨーロッパにおいて、もともと医療目的で合法的に製造された麻薬を「横流し」した後、異なったルートを通じて、アジアを含む様々な目的地に送り込んでいた。彼らは、そのルートをいとも簡単に変更することができた。連中は、多くの地域で国境を越えて活動していたし、その拠点は往々にして自分自身の国ではないのであった。

彼らは、汚職官吏やら、関係する会社の職員に自在に賄賂を渡すことができた。汚職が横行し、輸入許可証等の文書偽造があり、儲けのみを念頭に、知らぬふりを決め込んでいた製薬会社その他があった。こういった麻薬密輸の企ては当時であっても、既に高度に組織化されていた。巧妙な隠蔽方法を用い、文書偽造を行い、また暗号による通信を駆使していたのだ。

その当時書かれた各国の公文書を紐解けば、国境を越えた組織犯罪の事例が生々しく姿を現す。私は今、100年前に作成された各国の公文書やら、密輸業者らが、例えば当時ヨーロッパと極東との間で取り交わした怪しげな書簡などを探し出し、過ぎ去った時間に流されて、過去に埋もれてしまった物語を掘り起こそうとしている。例えば小説や映画に出て来そうな場面が幾らでもある。そして大抵、事実は小説より奇なりなのであった。しかしそれは、また別の話だ。

一世紀余り前、こういった状況のもと、国際”連盟”事務局はすでに国境を越えた情報共有のために懸命な努力を続け、非合法な活動に鋭く楔を打ち込んで、現在に至る国際条約体制を築く礎となった。すでに連盟事務局は、麻薬事犯の捜査結果などを世界各国に情報伝達する、重要な役割を担っていた。これが1900年代初頭、国際麻薬規制が未だその揺籃期にあった時、国際連盟が果たした役割であった。

このように情報・インテリジェンスを国際的に多国間で共有することは、密輸業者らが当時の麻薬規制の弱点を悪用するのを防ぐためには、必要不可欠であった。今日においても全くその通りである。

そして、遥か後年、1988年に採択された新条約の下、後述する新たな物質を規制するために、私が国連側の責任者としてチームを組み、世界各国の当局者達と新たなメカニズムを作り上げようとした時、一世紀以上前の先人達の苦闘を思い浮かべたのだ。

今日における薬物規制のための国際条約体制は、1912年に最初の国際条約が締結されて以来、国際連盟時代、そして国際連合になってから、徐々に進化してきた幾つもの条約を一本化した、1961年の「麻薬に関する単一条約」、新たな1971年の「向精神薬条約」、そして後述する1988年採択の「麻薬及び向精神薬の不法取引に関する国際連合条約」によって構成される。

これらの条約は、主として、国際規制の対象となった薬物の生産・製造・輸出入・使用等を、医療研究用に限定し、そのために必要な量は確保するとともに、正規の流通経路から非合法なルートに横流しされることを防ぐため、複雑な規制手段を設定している。それは国際貿易の過程から麻薬の「横流し」を防ぐのに極めて有効であった。

また、「麻薬」というのは、「向精神薬」もそうであるが、医療用にはごく重要であって、そのために必要な量を世界的に確保することも不可欠である。

国際麻薬規制が始まって間もなく、1931年に採択された条約は、合法的な医療目的での麻薬の需要に関して、いわゆる麻薬「見積り」制度を、歴史上初めて導入した。この制度の下では、独立した委員会が、各国政府が提出する、医療用に必要な麻薬の需要見積りを仔細に検討した。現在のINCBの前身のひとつである。この委員会が承認した需要「見積り」がなければ、麻薬の合法的な輸出は許可されないことになった。実質的な輸入枠の導入である。

だから、犯罪組織が例え輸入許可証を巧妙に偽造したとしても、承認を受けた「見積り」枠なしには、麻薬の輸出が許可されることはなかった。「横流し」を未然に防ぐことができたのだ。そして、全世界から提出されるデータを綿密に検討・比較する「統計制度」と合わせて、供給と需要のバランスをとり、医療用に必要な量を確保するのに貢献した。それは今日においても、引き継がれている。そこに100年の蓄積を見ることができる。

私が国連で最初に扱ったのは、INCB事務局での麻薬「見積り」・「統計」制度であった。「アヘン系麻薬」の世界的な供給と需要の研究も手掛けた。しかし私の仕事のうち、わけても語りたかったのは、前述した、最も新しい1988年条約のことだ。この条約は、乱用される「麻薬」やら「向精神薬」ではなく、そういったものを密造するのに必要な「前駆物質」(いわば原料である)や、その他の「化学物質」を規制した。かつて1900年代初頭に、合法的に製薬会社が製造した「麻薬」が、多量に「横流し」されていたように、100年後では、麻薬原料その他の化学物質が正規のルートから横流しされ、麻薬などを密造するのに使われていたのである。

1988年条約は、INCBに新たな任務を与えた。これまでの条約に基づく、各国が条約の規定を遵守しているかどうかを監視し、国際的なシステムを運用するといった任務に加え、どの化学物質を国際規制の対象にするかを吟味する役割も担うこととなった。それ以前の条約では、この役割は世界保健機関(WHO)が果たしていた。「麻薬」や「向精神薬」は医療目的に使われるものだからである。

時代は移り変わっていたし、世界に国際薬物規制の経験と慣行の蓄積はあったけれども、新たな国際規制の対象となったのは、汎用品であり、従って麻薬に対するように厳格な国際規制を当てはめることはできず、我々は一から始めなければならなかった。我々の前には誰もいなかった。道は作られていなかったのである。だから我々は、世界各国の当局者と語らい、任意で結果を出すことのできる手立てを作り上げようと、ともに懸命の努力を重ねた。

その頃、1990年代の最初に、G−7首脳国会議は、「ケミカル・アクション・タスクフォース(CATF)」なるものを準備した。化学物質の製造・輸出入に関わる国々、また麻薬や向精神薬の密造が摘発される国々と、国連の他、関連する国際機関、例えば国際刑事警察機構(ICPO/インターポール)や国際税関機関(WCO)などが含まれた。そこでは、各国が具体的にどのような手段を取るべきか、また新たに規制の対象とすべきはどういった化学物質であるか、その2本建てで知恵が結集された。そのために、私はINCBを代表して、5回だったか毎月ワシントンに飛んだし、タスクフォースの最後の会合は、地域特性も考慮すべく、マレーシアで行った。

我々にとってそれは、綱渡りをしているようなものであった。それまでの任務と新たな任務を同時にこなし、各方面を同時に説得しなければならなかったからである。幸いにしてINCB事務局には頗る優秀なチームを作ることができたし、主だった国々の当局者も、新たな任務に燃えていた。

関係諸国の当局と綿密に協力して、様々な国際オペレーション(作戦)が開始された。これは、麻薬などを密造するのに使う化学物質を、製造された国からその次の国、またその次と、様々な当局が密接に連携して追跡して行くというものであった。その何処かで、密輸をしようとする連中が現れるからである。そして、必要な情報を国際的に共有するためのメカニズムの中心に、国連の私のチームが居た。

先ず最初に始めた「オペレーション・パープル」というのは、コカインを純度の高いものに精製する際に必要な化学物質を対象とし、次の「オペレーション・トパーズ」はヘロイン製造のために不可欠な物質を追跡し、続く「プロジェクト・プリズム」は「アンフェタミン系覚せい剤」といわれる、薬物群の前駆物質(原料)の動きを追った。この国際オペレーションは、非合法なルートへの化学物質の「横流し」を防ぐのに、大いなる効果を発揮した。

その頃、世界のあちこちで集い、互いに考え抜き、ともに試行錯誤しつつ、国際的に効果的なメカニズムを作り上げようとした者達がいる。それぞれの任務が要求する以上のことを、やり遂げようとした。誰が言い出したのか、確かドイツ連邦警察の友人だったと思うが、この集団を「インナー・サークル」と表現した。我々は、その誰かが頼んでくれば、万難を排して、その依頼に応えようとした。ほとんどが定年退官した今も、それは続いている。

国際薬物規制が始まって後、一世紀余りが過ぎた。100年のうち、その三分の一は、私も若干の貢献をしたのだと、そう思いたいところである。