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第1回時を超えて四海の波を揺れ動かす 〜国連職員として世界へ〜

藤野 彰

(ふじの・あきら / FUJINO・AKIRA)

藤野  彰の写真

イースタン ネットワーク・オフィス フジノ代表。1951年3月28日生まれ。1980年に国連に採⽤され、ウィーンに通算25年、その間バンコクに5年、赴任。主に⿇薬等の国際規制に関わる。国際⿇薬統制委員会(INCB)事務局次⻑、国連⿇薬・犯罪事務所(UNODC)東アジア・太平洋地域センター代表、UNODC事務局⻑特別顧問などを経て、公益財団法⼈ ⿇薬・覚せい剤乱⽤防⽌センター理事長、一般社団法人 国際麻薬情報フォーラム代表理事、内閣府認証特定⾮営利活動法⼈ アジアケシ転作⽀援機構理事。エバーラスティングネイチャー代表理事。

エピローグ

_theman-naka_06「ひとつの波が揺れて、四海の波を揺れ動かす」と、随分と前に、何処かで、眼にしたようだ。

私の辿って来たひとすじの、しかし幾つかの岐路もあった道を振り返るだけでさえ、遥か昔に先人たちが起こしたひとつの波が、100年の時空を超えて、今日の世界で四海の波を揺れ動かしていることが分かる。また、ひとりの人間の行動が起こす波が、地球の反対側の波を揺れ動かすのを知ることができる。

だから、日本の地で、若者が薬物を乱用しないことが、地球の反対側で、命を賭けて取り締まりに携わる人達の命を救う道に繋がる、その第一歩なのだと、私は日本に帰ってから、ときに依頼される講演の最後を、大抵そう言って締めくくる。

ある時、亡き母が、「あなたは、結局、”初志貫徹”したね」と言ったことがある。「え、何?」と聞き返せば、中学生の頃、書き初めか何かでその「初志貫徹」と書いたそうである。そして、その時代に思い描き、周りにも言ってきた道を、私は辿ったようだ。何十年ぶりかにお目にかかる機会を得た、しかし今は亡き、幾人かの中学時代の恩師にも、同様に言われたのを思い起こす。

その恩師のうち、山口大学附属山口中学校で英語を教わったのは岡村正昭先生で、当時の高松宮杯全日本中学校英語弁論大会の全国大会決勝に辿り着くまでに指導していただいた。その前には、私が後に進学する山口高校を定年退官後にスパルタ塾というべき英語塾を開かれた、岩本義雄先生に鍛えられた。それがなければ、岡村先生に見出されることもなかっただろうし、この両先生の薫陶を受けずして、その後の私が辿った道を歩むことはなかった。

岩本先生には、国連に採用が決まってからすぐ、その報告に伺ったのが、お会いした最後になった。岡村先生には国連を定年退官した後、40何年か振りにお目にかかった。その頃、中学の時の担任、田中稔穂先生にも同級会で再会した。この先生方である、初志を貫徹したなと言って下さったのは。今は皆、鬼籍に入られた。不肖の弟子は、ただ天を仰いで慨嘆するのみである。

無謀も歩くと道に成るそうだ。私は常に新たなことに挑戦しようとしてきた。常に開拓者たれ、とも教わってきた。今すぐ動くのだ、と。私はそうしてきたのだという思いがある。

この先、恐らくは日本と国外で活動を維持し続けることになるのであろう。国連との繋がりも続くと思われるし、さらにこれまでの仕事とそれ以外でも重点を置いてきた活動の延長での、新たな道を開きたい。タイにいる間にダイバーとなったことでもあり、海洋環境保全に貢献し、また例えば黄金の三角地帯の農民を支援し、さらには日本の若者たちが薬物乱用の危険性を認識するよう尽力する、といったことに、それぞれのご縁から来る繋がりを駆使して携わるべく、私は考えを巡らせる。

ご縁について想うことがある。神様は誰かの口を借りて必要なことを伝えて来るのだと、そう教わったのではなかったか。そして、ひととの出会いというのは、早すぎもせず遅すぎもせず、丁度良い時に起るのだ、と言われてもきた。確かに、常に、そうであった。

また人生が交差した、と思うことがこの頃多くある。思いがけぬ再会があり、不思議なご縁が判明し、さらには、新たなご縁が生まれ、そこに、新しい道が見えるようだ。必ず、そのうち、時が変わる。

    【 この人は語る/第2回 】こうづなかば