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絵で伝える湧き上がる幽玄美

今吉 淳恵

(いまよし・あつえ / IMAYOSHI・ATSUE)

今吉  淳恵の写真

東京都に生まれる。早稲田大学卒業後、源氏に出会う。
早稲田大学院・中野幸一研究室にて源氏物語を聴講、日本画を始める。日本美術院同人小谷津雅美先生に師事。
パリユネスコ本部の主催により、47m源氏物語絵巻個展を開催し、大きな好評をえる。その後パリユネスコ本部、パリ大学、パリ政治学院シアンスポにて、今吉淳惠の源氏物語講演会を開催。源氏にある幽玄美を描きたくて取り組んでいる。



公式サイト http://imayoshi-world.com/

プロローグ

10歳で聴力が少しづつ衰えはじめ、ついに感応性難聴になりました。大学を卒業し社会人生活においては、人とのコミュニケーションが難しくなり、孤立する日々。そうした中、意を決してロンドンに渡りました。

数ヶ月という滞在の中で得た海外生活は、驚きと新鮮な毎日の連続でした。言葉が通じなくても、そこには心でわかりあえる確かな手応えがあり、人生観が一変したのです。

帰国後、よりいっそう日本の持つ歴史や伝統、文化の素晴らしさを実感し、現在の私の作品に反映しています。

幽玄美と恋に落ちる章

私は30歳まで源氏を読んだ事もなく絵を描いた事もなかった。先行きは不透明でした。
しかし、ある日たった30秒で人生が変わったのです。

ふと入った本屋で目に入ったのが円地文子氏の源氏物語。
何気なく手に取り中をみる、「須磨」?「明石」?? 日本人ならお話くらい知っておいた方がいいかもと一冊買ってみました。

ところがページを捲ってみると、なんともこれが面白いのです。
この世にこんな面白い小説があったなんて、しかも千年前!! 私は信じられない思いがしました。まさに衝撃の出会いでした。

余りの凄さに、昼夜ぶっ通しで読み続け、たった一週間でいっきに54帖読み通してしまったのです。
私は源氏をライフワークにしようと決め、独学を始めることにしました。
それからというものは体当たりの連続でした。

原文も読めるようになる為「小学館古典文学全集」をテキストに、口語訳と対比して読み合わせながら直に原文を解読。
母校早大の中野教授に熱意と情熱で訴え、聴講を許可されました。

幸せだったのは最初に出会った原文が「須磨」の美しい文章だったこと。
知らなかったが源氏の中でも殊玉の名文といわれている文章で、その原文の大和言葉の醸し出す美に私は打ちのめされたのです。

それは何と偶然「源氏の幽玄美」(今吉の造語)の箇所でした。
なんという幸い! これがその後、私の絵になっていくことになるとは夢にも思いませんでした。
私はこの原文の創り出す幽玄美の美しさに強烈な衝撃を受け、次の瞬間まさに恋に落ちてしまったのです。

これがその幽玄美の絵です。須磨です。
ここ須磨の浦の美しい風景描写と相まって源氏の心の動きが韻律に冨み、陰影豊かな美しい文章で描かれています。
須磨の情景描写はこれぞまさに幽玄美!! 名文中の名文です。
少しだけ原文で読みますと、

『須磨にはいとど心づくしの秋風に、海は少し遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆるといいけむ浦波、夜夜はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものはかかるところの秋なりけり』

私はこの「いとど心づくしの秋風に」というたった一言に出会った時の衝撃は忘れられません。
魂が揺れる程の感動に打ち震えました。
もうこの一言だけで源氏の幽玄美の虜、まさに恋に落ちてしまったのです。
「須磨には心づくしの秋風に」とたった一言しか書かれていないのに、秋の海辺の情景が非常に美しくビジュアルにぱっと目に浮かんでくるんですね。

美しい海辺に夕日がおちて秋の風がその光を揺らす。波間にはほんのり赤い光がゆれて、あたりは次第に紫色に黄昏てくる。向こうには紅葉の赤がかすかに揺れて、寄せては返る波の音、寄せては返る波の音。一瞬にしてこれだけ浮かんできます。

須磨に流されて、孤独をかこつ源氏の耳元に、夜はこの波と風の音がひとしおの哀愁を持って聞こえてきます。

源氏は涙ぐむ琴を弾きながら歌を詠み『恋わびてなく音にまがふ浦波は想う方より風や吹くらん』「ああこの波と風の吹き寄せて寄せてくる音は都に残してきた女達が、私を思ってくれる、その思いがよせてくるのだ」と涙します。絵は歌の心情を描きました。

源氏の幽玄美の場の情景描写は大変視覚的で、同時に自然の風や波の音、琴や笛の音色まで耳に聞こえてくる程の余情性に富み、読んでいるとそれはもうしびれるくらい美しい。紫式部はこの幽玄美の情景を重要な場面展開の要所要所に散りばめてあり、全て古来の名文となっています。
原文で読むとその美しさは比類がありません。

ところでこんな美しい情景描写の底にも、この歌のように光源氏の頭の回路、美男にありがちなナルシストぶりや帝の皇子で何でも許されるというおごりとか、性格がしっかりと表現されています。

源氏は一見表面は非常に美しいですが、その底には人物の深い心理描写や性格、深い人間洞察等が複雑多様にしっかりと書き込まれています。

幽玄美とは美しく霊的で透徹した余情性にとんだ情景描写の底に、このような人間の心理描写までも統合した、深い表現をもって描かれた「美」であると思いました。