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第8回 造形と藍染

田中 賢二

(たなか・けんじ / TANAKA・KENJI)

田中  賢二の写真

1942年東京生まれ。1963年桑沢デザイン研究所卒。1988年八ヶ岳の麓に灰汁発酵建の藍染の工房を移築。1990年東京アメリカンクラブ内ギャラリーにて作品展。1997年藍染教室『藍に遊ぶ会』主催。1998年ドイツ シーボルトミュージアムにて作品展。1999年ハンブルグ国立工芸博物館がタペストリーを収蔵。2004年ニューヨークのギャラリーにて作品展。2007年玉川高島屋にて作品展。2009年松明堂ギャラリーにて作品展。新宿高島屋にて作品展。2012年三鷹市芸術文化センターにて『蓮』展。2013年新宿高島屋にて作品展。以降、毎年個展を開催。

日本の伝統工芸の藍染で、独自のアートの世界を表現し続けるなか、2019年、インスタグラム上で紹介された田中の作品がカンヌのギャラリーに高く評価され、イタリアのSCALVINI MUSEUMで個展開催が決定。

工房藍 「田中賢二 藍の世界」HP
https://www.kenjitanaka.info/
工房藍 「田中賢二 藍の世界」FB
https://www.facebook.com/pg/kohbohai/posts/

生まれ育った下町の昔

昭和17年(1942年)東京、南千住に生まれました。場所は浅草から山谷へ常磐線の踏切を超えて日光街道へ向かう通りは昔、小塚原刑場でその道を骨通りと言っていろいろな商店がある小さな町です。昭和25年頃(8歳)まわりは空き地が沢山あり麦畑や共同の井戸があったり、生ゴミの回収車は馬が引いていました。子供達の遊びはメンコ、ベイゴマ、またそこらにある色々な物で遊ぶこと考えたりし、夏などは近くの川へ子供達だけで泳ぎに行ったり、夜は竿でコウモリ捕りなどをしました。

テレビなど無い時代で娯楽の王様は映画で町には二流館が沢山あり3本立て25円。封切り映画の一流館は浅草へ歩いて行きました。

毎年11月のお酉さまは大変寒く、オーバーに襟巻をして浅草までみんなで歩いていくと吉原の格子戸のある家に沢山の女の人が居て不思議でしたが、少し大きくなって遊女屋だと分かりました。
私の家は木型職人で、隣は駄菓子屋さん。家の前に芸者屋の見番、並びに数件の料亭があり、家具職人の家があったりと面白い町内でした。

私は新聞のチラシ広告の裏の白い物を集めビッシリ絵や漫画の模写を描くのが大好きで、襖などにも絵をたくさん描いて叱られたりしていましたが、幼心に何かを表現する道に進むようにおもいました。

人も仕事も出会いで始まる

15歳頃。絵の友、漫画の友に数人出会いましたが、その集まりは本当に楽しかった。皆が同じ方向に向かって行こうとしているからだろう。ますます夢中になってデッサン教室に行ったりして頑張った。プロの作家の人が時々その集まりに来て指導して頂き、またその中で小島剛夕さんが優しく接してくれたのを思い出します。ほんとうにカッコイイうまい絵を描く人でした。

仲間もプロの漫画家になった人もいましたし、アニメーションの方へ行った人もいました。10年ぐらい前にその一人の友人の金山明博さんがアニメーションの話でテレビに出ていて懐かしかった。

私は18歳からグラフィックデザインの道に進みました。デザイン学校の授業の中の基礎造形で以後の物の見方、考え方が決まったようです。

その他にこの60年代に流行していたモダンジャズもまた色々と感じた音楽でした。コルトレーンやモンクが大好きでそのパワーと創造力に関心し続け今でも毎日聞いていても新しく感じています。

どの分野でも自分の世界を真剣に向かい合う人を尊敬します。また私も造形と創作に夢を持って進んでいきます。

30歳頃、一枚の布に染められた色に心を打たれ、その不思議に感じた色が藍でした。