小池 博史
(こいけ・ひろし / KOIKE・HIROSHI)
演出家。茨城県日立市出身。一橋大学卒業後、TVディレクターを経て82年パフォーミングアーツグループ『パパ・タラフマラ』 を設立。以降、全作品の作・演出・振付を手掛け、国際的に高い評価を確立。3.11を機に翌2012年パパ・タラフマラ解散後、『小池博史ブリッジプロジェクト』発足。創造性を核に教育・発信・創作を三本柱とした連携プロジェクトとして現在までに8作品を創作。国際交流基金特定寄付金審議委員(2004年~2011年)などを歴任。現在「舞台芸術論」(仮題)の出版準備中。
小池博史ブリッジプロジェクト
http://kikh.com
こうして15年が経過した後で文化混淆を図った。意図的に異文化圏アーティストを作品に入れるようにしたのである。「百年の孤独」は異文化混淆によって成り立つ街が舞台となった小説だからだ。1997年以降2005年までのほとんどの作品に海外のアーティストが入っている。以降も半数の作品で海外アーティストを入れているが、それは異文化が混じることで、見えなかった可能性を見ようとせんがためである。
2001年に「WD」という作品を仕上げた。これは21世紀の始まりの年に20世紀全体を総括するとともに21世紀を展望しようと意図した作品である。その総括の最中、第三部の制作中に9.11事件がニューヨークで起きた。ちょうど会田誠の巨大オブジェ、「うんこと出刃包丁」が舞台上空を回転し、追いかけっこし続けている「現在」の章の制作中であった。20世紀はアメリカの世紀と言ってよいだろうから、アメリカのアーティストが多く入っていたが、ブルックリンに住むニューヨークのアーティストはその様子を目の当たりにしてショックを受け、ニューヨークから来られなくなった。また、四部構成の本作品の第四部は21世紀を展望する章として、9.11後のサンフランシスコで実施している。その制作は騒然として、多くの市民が次はゴールデンゲートブリッジだと言って怯えていた。等身大の骸骨が練り歩いては女を犯した。また、骸骨が空から次々と降ってくる映像もすでに9.11前に準備していた。
「WD」を作り上げた後、未経験の方法として残ったのはふたつの要素である。それまでに「百年の孤独」創作のためのさまざまな手法を獲得していたが、コメディの要素と激しい性の要素だけは手付かずのままだった。これらを意識して2002年から2004年までに4作品を制作し、2005年、やっとのことで「Heart of Gold~百年の孤独」としての作品制作に漕ぎ着けた。すでに24年間が経過していた。
「百年の孤独」制作を終えて見渡すと、自分自身が浦島太郎のようになっているのを知った。つまり、私が夢見た大いなる世界を目指すダイナミズムは消滅し、日本全体が縮小してちまちまと蠢いていた。縮こまったまま、そのなかでの差異化に汲々とし、妙な権力ができあがりつつあった。具体的な描写は止めるが奇怪な風景だった。そこでカンパニー自体の解散も考えたけれど、まずは「神話化」を試みる作品を作り、現実世界を揶揄する動きを作り出せないかと考え、実行に移していった。童話シリーズや稀代の変人であるジョナサン・スウィフト(「ガリバー旅行記」の作家として有名だが、奇怪きわまる人物)をさまざまな側面から戯画化しつつ捉えた三部作を制作した。「パンク・ドンキホーテ」……社会に対し義憤に駆られた男が世直しを思い立ち、自分の家族を軍隊化して世界に打って出る。だが、動物なのか怪物なのか赤ん坊なのか定かではない魑魅魍魎によって追いやられ、次第に家族は殺され、自殺し、狂い、バラバラになって崩壊し孤立化、男もまた狂ってしまうという作品を作った。圧倒的に足りないのは壮大なビジョンであり、可能性であり、縮こまっている場合じゃないとの信念からの創作だったが、なんにも変わらないまま、ますます社会は狭まって、メディアはメディアの体をなさなくなり、どこ向いて発信しているかわからない状況に変わった。批評家は「もどき」ばかりとなって、承認欲求でできた作品を持ち上げて恥じらいがなくなっていった。
その頂点のようなタイミングで地震、大津波、福島原発問題が2011年3月11日に起きる。このとき、銀色の防護服を着てゼエゼエ呼吸している人々から始まり、ラストは旗を持って走り回る人がいるなかを大音量の波の音が襲ってくる作品を、学校の生徒たちと稽古中だった。その最中に激しく大地が揺れた。大慌てで外に出て、少し落ち着いてから室内に入り、テレビを点ける。私たちが見たのは、津波にさらわれる家々や車、ひと飲みにされてしまう堤防だった。恐怖に震え、まさに自分たち自身が稽古をしている舞台とその映像の類似性に強いショックを受けた。この作品タイトルは「BT」すなわち「Between the Times」、時代の裂け目との思いから名付けたタイトルで、2010年12月にはすでに台本は書いていた。
私はもはやこれまでだと思った。これを契機にできなければ、日本人はむろんのこと、世界中の人々は生きていけないだろうと感じた。これほどの厄災、これほどの痛恨事をいかに私たちは引き受け、真剣に向き合っていけるのか、その態度が今求められている、と思った。そこで最も私自身が大切にしてきたカンパニーを解散させ、新たな方法を探らねばならぬと思い至った。ゼロからの出発を欲したのである。その準備に一年を費やした。単に解散させても意味は薄い。まずは「私たちが行ってきたことはなにか」について記述し、「ロンググッドバイ」という本に纏めて青幻舎より出版した。さまざまなアーティストや作家や学者、市井の人々とのトークを次々と実施、その上で解散に向けて、そのとき可能な4作品の上演を行った。そして2012年5月31日にパパ・タラフマラを解散し、翌6月1日から「小池博史ブリッジプロジェクト」として新たな歩みを開始している。パパ・タラフマラは1982年6月1日の発足だからちょうど30年の時間が流れていた。私自身としては、創作活動実施の目的を充分に果たし得たと思うが、それによって社会はまったく良くなりはしなかった。社会を芸術によって変えたいと考えてのパパ・タラフマラ発足だったにも関わらず、変わらないどころかより一層悪くなってきわめて居心地の悪い社会となっていた。