小池 博史
(こいけ・ひろし / KOIKE・HIROSHI)
演出家。茨城県日立市出身。一橋大学卒業後、TVディレクターを経て82年パフォーミングアーツグループ『パパ・タラフマラ』 を設立。以降、全作品の作・演出・振付を手掛け、国際的に高い評価を確立。3.11を機に翌2012年パパ・タラフマラ解散後、『小池博史ブリッジプロジェクト』発足。創造性を核に教育・発信・創作を三本柱とした連携プロジェクトとして現在までに8作品を創作。国際交流基金特定寄付金審議委員(2004年~2011年)などを歴任。現在「舞台芸術論」(仮題)の出版準備中。
小池博史ブリッジプロジェクト
http://kikh.com
私は舞台作品を35年に渡って制作してきた。作品数はプロダクションとして70本弱。これら作品群以外に、私自身の学校として長く続けてきた「舞台芸術の学校」での生徒との作品創作や市民とのワークショップ、プロフェッショナルとのワークショップから創作する作品を加えれば、総計で170本ほどは作ってきただろうか。年間5作品を平均して生み出した計算になるが、近年はとみに多く、たとえば昨年は市民ワークショップで4作品、学生とともに創作した作品が2本、私が主催する「小池博史ブリッジプロジェクト」としての新作が2作品、加えて旧作のリメイク上演が1作品、ツアー作品が1本。完全新作に限定すれば作品の大小はさておくとして8作品、リメイクや再演を加えれば総計10本を実施している計算になる。とは言え「ブリッジプロジェクト」の新作準備には最も時間を割き、完全な新作創作ならば稽古期間だけで約2ヶ月を要する。公演期間も入れればほぼ2ヶ月半。これが2作品だから残り7ヶ月間に8本を実施してきている。この間を縫って台本を書き、さまざまなミーティングを開き、翌年の準備に向かいつつ、資金力の不足に頭を悩ませてはもがき苦しんでいる。
知っている人には説明は不要だろうし、3歳以上の子供ならばあまり問題は生じないのが私の作品であり、高齢でもまったく大丈夫。しかし台詞や舞踊のテクニック中心に見る人、あるいはその場での謎解きが大好きな人はしばしば迷路に入り込んだままとなって楽しめないという現象が起きる。それは舞台作品を舞台進行と同時に解読しようとするからだ。解読は大いに結構だが、作家側は解読して欲しくて創作しているのではない、「これはなにか?」から遠ざかろうと創作している。よってその意識で見れば、乖離が生まれるのは当然だ。しかしそんな視点しか私たちは持てないように教育されてきた。さらに言えば、これは日本人の多くが創造力、想像力を誤解してきたのではないか?という問題に繋がり、可能な限り回答を早く出せる、クイズ正解者型の人間が優れた人であるとした教育の問題に繋がってくる。
そもそも私は大学に入るまで舞台は大嫌いで、こんなしょうもないことをやる人の気が知れないとまで思っていた。まさか私自身がそれを35年もやるとは夢想だにしなかった……と我ながら驚く。子どもの頃、見てしまった何本かの舞台のつまらなさに辟易していたからで、高校時代は建築家になるつもりだった。それが大学受験の直前に上京して、なんの気なしに見てしまった映画に驚き呆れ、映画には映像でしか表現し得ない言語があることを知った。それまではストーリーで映画を見ていたのが180度別の視点を持てる可能性があるのだと知って感激し、進路を変更してしまったのだった。
こうして建築学科に入るのは止め、大学は、映画を撮るために社会的視点を持たねば、と社会学部に入り、友人から舞台も似たようなものだからと勧められて始めたのが舞台演出である。実際にはまったくの別物だと次第に理解していったが、最初から台本を書いて演出をしていた。まったくの未経験のままのスタートだった。書いた経験、演出経験ともにほぼゼロの状態のまま、即1時間の作品を作った。そもそも建築を行いたかった人間が映画という時間芸術に目覚め、いくつかの格闘技をしていたこともあって身体に対する興味は強く、それらが混ざり合った作品を最初から志向していた。だから驚かれ、不思議がられもした。学生時代、変わらず通常の演劇や踊りには興味は持てないまま8作品を制作した。
卒業後はテレビ制作を短期間行う。しかしすぐに飽きて再び舞台制作を始めたのが1982年。パパ・タラフマラというカンパニーを作った。目的は大きくは三つ。舞台芸術の新しい可能性を切り開くこと。国境、人種、ジャンル等の境界をなくすこと。ガルシア・マルケスの小説、「百年の孤独」を舞台化すること。
マルケスの「百年の孤独」はブエンディア家、百年の歴史を描いている。この小説はマジックリアリズムと言われる通り、現実と非現実の差がなく、生と死の境界をもいとも簡単に破り、人種が混交し、次から次へと新しい波が押し寄せ、愛のない性行為によって子供が次々と生まれ、死者の国を旅し、止むことのない雨が降り続き、一瞬にして百年の歴史が消えてしまうという荒唐無稽な話である。私はこの物語に魅了された。そしていつか制作したいと思った。でも実際にはやりようがなかった。こんなにも荒唐無稽で、膨大な時間の物語をどうやって短時間の舞台で表現できるのか?
まず「百年の孤独」を舞台化するには、演劇・舞踊・オペラ……等の枠組みに嵌っていては無理だと思い、とにかくさまざまな取り組みを段階を追って実践していった。空間が変容していくことで形作られる表現、台詞での表現、音、声による表現、文字を映写したり、アニメーションを用いた表現、身体的表現、舞踊的表現、映像を駆使した表現、影絵、人形による表現、そもそもこの作品を作り上げるためには、舞台芸術の可能性を限りなく切り開き、境界をなくさねば、創作は不可能と強く思いながらの継続的実践だった。いわゆる演劇的表現や舞踊的表現などの枠を超えて、芸術そのもののあり方を問いかけるといった意識は常に私に纏わり付き離れなかった。音は音として、美術は美術として、可能性の探求を行いつつ、それだけでも成り立つクオリティとし、あらゆる要素が密接に絡み合った結果として成り立つ表現を目指した。