金 大偉
(きん・たいい / KIN・TAII)
中国遼寧省生まれ。父は満洲族の中国人、母は日本人。来日後、独自の技法と多彩なイマジネーションによって音楽、映像、美術などの世界を統合的に表現。近年はアジアをテーマに音楽や映像作品を創作するほか、映像空間インスタレーション展示、絵画展、ファッションショー及び映画の音楽制作、演劇舞台の演出、国内外にて音楽コンサートやイベントを行い、様々な要素を融合した斬新な空間や作品を創出している。
音楽CD『Waterland』('97)、『新・中国紀行』('00)、『龍・DRAGON』('00)。また中国の納西族をテーマにした『TOMPA東巴』('03〜'07)シリーズ3枚を発売。東日本大震災への祈りの組曲『念祷 nentou』('11)、『冨士祝祭〜冨士山組曲〜』('14)、『鎮魂組曲』('16)、『鎮魂組曲2 東アジア』('17)、『マンチュリア サマン』('18)など22枚リリース。
映画監督作品は、『海霊の宮』('06)『水郷紹興』('10)『花の億土へ』('13)『ロスト・マンチュリア・サマン』('16)など多数。また自身の表現世界の流れや創作への思想などをまとめた著書『光と風のクリエ』('18)などがある。
http://www.kintaii.com
失われゆく満洲民族の文化を探して
このプロジェクトは私にとってのフィールドワークの始まりで、現地の体験を生かして、自分の中で調和を計り、最終的に自分の個性と異民族や異文化の要素との統合を可能にしたと考えられる。同時に、他者との出会いによって自己存在が再認識できるのがとても大事な体験であると思う。
2007年に中国東北の満洲地域を旅した主な理由は、いよいよ自民族のアイデンティティーや伝統文化の原点を探ってみたいと言う思いで、満洲語で歌う人々の古い民歌やシャーマンの神歌を探し、その自分の民族の歌などを再び独自の手法で音楽によって作りたかったのが本心である。しかし、残念なことに、約1000万人以上いる満洲族は、満洲語がほとんど話せないのが現状だった。約一月間の旅は、ほぼ収穫なしで終わった。本当に、驚いた。
つまり現地には、まともに満洲の言葉や風習をまとめた音楽や映画作品すら見つからなかった。幸い現地の学者や研究者から数冊の本をいただいて、持ち帰えることができた。
このような状態の中、私は非常に悲しみを覚えた。268年間、中国全土を統治した満洲族の文化は、ほとんど漢字文化でしか伝わっていない。もちろん歴史の中において、最後の王朝である清帝国(1644~1912)の存在は大きい。私の家系も愛新覚羅一族の流れをくみ、古いシャーマンの儀式はあったという。つまり満洲族の信仰宗教はシャーマニズムである。「シャーマン」は原語に近い読みでは、サマン(薩満)と呼ぶのが相応しい。だが、私が東北の満洲族自治区などを訪ねる時、サマン神歌を歌う人も、民歌を歌う人もほとんどいないように見えた。これは一つの民族の存在末期というのか? 自らの風習や宗教信仰もなくなり、言語も消えるとしたら、この民族における根本的な精神部分が失われてゆくのであろうか。
なぜ満洲サマン映画なのか?
私は考え重ねて、音楽の制作と同時に、いや、それより先に映画を作らなければならないという力に突き動かされたかのように感じた。ドキュメント映画を撮りたいと強く思い始めた。そして、2008年~2009年に連続で現地を訪ね、当地の友人や協力者たちに助けられながら、時間が早くも進んでゆく中で、ついに本物のサマンや満洲族の伝統行事と儀式に出会うことができた。これは多分最後の機会であった。しかし、これでも遅かったと思う。90年代にはまだ優れたサマンたちがいた。2008年では、本当にわずかな長老サマンしかいなかった。しかも、2009年に出会った関玉林氏(老サマン)は、私の撮影を終えて、翌年に他界したのである。このことは、まさに失われゆく文化、あるいは遺産とでも言うべきか、微かな灯が消えたようにとしか言いようがないのであろう。私は奇しくも時代の変換期に立ち会い、何とも言えない悲しみを覚えたのである。
もともとシャーマニズムは、非常に古い宗教の形の一つといえる。人類が始まった時から、すでに原始人がその土地にある自然万物を崇拝していたのである。はるか昔の時代から、人類は今に至るまで受け継いできているのだ。満洲サマンは、集団や村の共同体の文化や信仰を守り、人々の病気を治したり、占いをしたり、村人が幸福になるために働き、人々の相談役であると同時に、リーダーシップとしての役割を果たすのである。
シャーマニズムの視点から見れば、私は、アーティスト自身がシャーマン的であるとも感じている。私自身も仕事に没頭する時、シャーマン的な部分をとても敏感に感じるところがあって、それは人間がもともと持っているシャーマン的な本質の部分であるように感じるのだ。その部分を再認識して、より意識することができたら、誰もかがシャーマン(サマン)的な力を活用できるのではないかとも思う。