第七話 サイモンの告白

ここまでのあらすじ

 〜〜〜 ニュースキャスターとして報道に携わるミミは、ある日、仕事帰りに東京渋谷の古本屋で、フランス語で書かれた青い表紙の本と出会う。その本には手作りの古い紙のしおりが挟まれていた。そこに貼られた「風景写真」。その下には、日付とイニシャルとRubanという地名が記されていた。ミミは日に日にその写真に惹かれていき、夏休みを利用してRubanを訪れようと決心する。しかしどんなに探しても手懸りが見つからない。諦めようとしていたその時、フランスで働いているはずのディレクターが出張で来日、偶然職場の放送局内で再会、彼女の手を借りて場所を突き止め、真夏の太陽の下、スケッチブックを片手に日本を旅立つ。
 その昔賑わったという異国の海辺の地は、今では観光で人が訪れることのない寂れた町になっていた。町の子ども達に勧められて訪れた丘で、まるで眩しい光の洗礼を受けたかのように、ミミに新たな感覚が生まれていく。その後ミミに訪れる数々の出会い。老婦人アデレーヌの娘クリスティーヌは、海に面した宿を切り盛りしていた。そこに滞在したミミは翌朝、朝靄の中響いてくるクラシックギターの音色を耳にする。演奏するその人物とは、アデレーヌが会うことを勧めた扉職人サイモンだった。彼とミミは、完成したばかりの扉をソフィーの家へ一緒に搬入しに行く。そしてかつてサイモンが作った扉がある教会へと足を伸ばした。そこでミミに新たな境地が生まれていく。翌日、アデレーヌの家でソフィーの家の扉の完成パーティが開かれた。招待されたミミは、思わぬ話をサイモンから打ち明けられることになる。
— 光、風、青いリボン、十字架、虹、白い鳩・・・という秘めやかなサインと巡り会う人々との対話と共に、旅のページがめくられていく。〜〜〜

青い月と天空の扉

  ソフィーの家の扉の完成をお祝いするパーティは夕暮れ時には終わり、集まった人々がアデレーヌの家の薔薇の門を潜って帰って行った。ピンク色に染まる坂道を歩く後ろ姿に、神の祝福を感じると見送るアデレーヌは呟いた。片付けを済ませると、彼女とサイモンと3人で庭先のテーブルについてお茶やワインを飲みながら、楽しい一日を振り返っていた。夜空に浮かぶ青い月が昼間とは違った幻想的な庭に変えている。アデレーヌは「ミミの泊まるお部屋を整えてから休むので、お先に失礼するわ」と言って家の中に入って行った。

  サイモンが月を眺めながら私に語りかけた。
「ミミ、あなたはあの月を眺める時どんなことを思うのかな・・・」
それは、独り言のような言い方だった。青い月の光が、サイモンの瞳を柔らかに覆い、時折煌めく。
「そうね・・・月を見ながら私の中で音楽が流れていくわ。あなたがさっき、弾いていた曲よ。あれはなんという曲なのですか?この前、屋上で弾いていましたよね。あの曲・・・」
「そうですか・・・」
サイモンは、ふっと息を吐き、「驚いたな」と言って微笑んだ。
「僕も月を見ながら、あの曲が耳の奥で流れているのです。あの曲は・・・なんていう曲かな・・・」
「え?」
「そうだな・・・天空への扉・・・という感じかな・・・」
「感じかな・・・ってどういうことですか?」
「うーむ、あの曲は、僕の祖父が歌っていた曲なのです。」
「あゝ、お祖父様の思い出の曲ですか・・・?とても美しい曲ですよね」
「思い出か・・・思い出か・・・そうですね・・・思い出といえば思い出とも言えなくはない。けれど・・・」
サイモンは、一瞬言葉を止め、また語り始めた。
「うむ、僕も子どもの頃からそう思っていた、なんて美しい曲だろうと。祖父が口ずさんでいるのを聞いて。よく月を見ながら、このメロディを歌っていたのです。月灯りの中にいる祖父は、まるで聖堂で歌っているかのような雰囲気がありました。そして、そのままどこか遠いどこかに行ってしまうような感じで・・・。だから歌い終わると、幼い僕はいつも祖父のもとに行って、手を握って一緒に月を見上げたのです。すると僕に微笑んでくれました。『美しい光だ、本当に・・・。サイモン、一緒にお祈りしよう』そう言って、二人で手を合わせてお祈りしました。その時僕は、祖父が祖父ではないような・・・でもそうであるような・・・何か尊い、何かを感じていたのです。そのお祈りの時間は静かで厳かで優しく、祖父の祈りの言葉は鐘の音のように僕の心の中で響いていました。」
「そう言えば、昨日教会で、お祖父様のことを思ってお祈りしていたとおっしゃっていましたよね・・・」
「そうです。十字架を見上げた時、十字架に架けられたイエス・キリストの姿に重なって、独房で祈っていた若い祖父の姿が脳裏に浮かんできたのです。」

一瞬、耳を疑った。今、サイモンはドクボウ・・・と言ったのではないか?独房と。
「ド・ク・ボ・ウ?」
私は確かめるように尋ねた。
「実は祖父はホロコーストの生き残りでした。ポーランドのアウシュビッツの独房に入れられている時に、終戦を迎えて解放されたのです。餓死寸前だったそうです。」
「まあ・・・そんなことが・・・」
柔らかい夜風が通り過ぎ、月の光を浴びた庭の林檎の樹の葉がざわめいた。サイモンの低音で透き通る美しい声が私の胸の中で響いている。

  私が担当してきた番組でも、世界の民族紛争、そしてホロコーストについても取り上げてきた。それにコメントをする度に思うのは、人類はどこへ向かおうとしているのかということだった。繰り返される過ち。それぞれの時代の大罪によって 尊い命がどれだけ簡単に奪われてきたか。その悲劇を人類はいつも抱えている。しかし一方で、繰り返されるということは、それが過ちではないと思っている誰かがいるという証とも言える。

「サイモン、お祖父様のお話をもっと聞かせていただけませんか。私にとってきっと大切なお話です。これも何かの巡り合わせかもしれません。」
月に雲がかかってきた。彼は頷くと、落ち着いた口調でゆっくりと語り始めた。

捕らわれた祖父〜レクイエム〜

  「祖父はポーランド人で、物書きで画家でした。ある日突然、祖父はナチスに捕らえられ、家に飾ってあった絵画も自分の制作した作品もすべて没収されました。いくつかの収容所に収容された後、貨車に乗せられ、最終的にポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウの収容所に連れて行かれました。

  終着駅のビルケナウのプラットホームを降りると、その場で、強制労働や人体実験などに役に立ちそうな者と、そんな価値がないと判断された者に選り分けられ、能力がないと見なされた人達・・・その多くは女性や幼い子ども達でしたが、彼らはそのままガス室へ直行させられました。
 
  祖父がアウシュビッツの独房に入れられる前に収容されていたのは、アウシュビッツからほど近い、アウシュビッツ第二収容所ビルケナウのバラックでした。総面積は1,75平方メートル程の広大な敷地で、そこに馬小屋や鶏小屋のようなバラックが無数に立ち並んでいました。1944年には9万人が収容されたと聞いています。祖父のいた所は、板張りの三段ベッドが連なっており、そこにワラを敷いて多くの人達が寝ていました。上下水道の完備はなく、冷暖房の設備もない。冬は氷点下20度、夏は35度を超える劣悪な環境で、毎日、過酷な強制労働が強いられ、死者が出ない日はない絶望と残酷の日々でした・・・」

  サイモンは黙って、膝に抱えたギターを見降ろし撫でながら
「これ・・・古いギターでしょう?祖父が使っていたものを譲り受けたのです。僕の大切なものです。」
と言うと、天空への扉を一音一音いたわるように弾き始めた。そして手を止めてまた話し始めた。

「この曲は、実は祖父のいた収容所のバラックで歌われていた曲なのです。・・・ある満月の夜のことだったと聞いています。そこにいた人の中で一番若かった15歳の少年が、柱に寄りかかったまま息を引き取っていたのに人々が気づきました。体も顔もひどくやせ細っていましたが、板張りの壁の隙間から差し込む月明かりに浮かび上がる少年の顔は安らかで、まるで天使のような美しい顔立ちでどこか微笑んでいたのでした。少年を見た人々は、『なんでこんなに綺麗なのだ』とか『きっと神様が哀れんでこの子を迎えに来てくれたのだ・・・』『なんて美しい微笑みだろうか』とか『粗末な馬小屋で生まれたというイエス・キリストも、こんなに一際輝いていたのだろうか・・・』と囁く人もいました。ある人が少年の亡骸を抱き、『お母さんのところに行くのだよ』そう言って、泣きながら子守唄のようにあの曲を歌ったのだそうです。実はその人は、その少年が時々うなされて、お母さん、お母さんと言っているのを知っていたのでした。

  ホロコーストで捕らわれた多くの人達はユダヤ人でしたが、ポーランドでは、ユダヤ人かどうか関係なく、ナチスに抵抗すると疑われた人々、裕福な地主、教師、公務員、ジャーナリスト、医師なども、何万人と捕らわれていったと聞いています。祖父のいたバラックにも、生きてきた場所も思想も年齢も宗教も違っている人たちがいましたが、強制的な死を前にして、みんな小さな一人の人間にすぎない・・・これまで、こだわってきたもの、所有してきたものに、どれ程の価値があったかと思わされた人は少なくなかったろうと、祖父は言っていました。そしてある境地に達していきました。全てを失おうとも、命を奪われようとも、死の瞬間まで残され天に持っていけるただ一つものは『心』であると。それが悪なのか真実の愛なのか、その違いはあまりに大きいと。

  いつ死が自分に訪れるかもしれない死と隣り合わせの収容所での暮らし。絶望と緊張と無力感に襲われて、他人の死を悼む気力も失われていく。少年の愛に満たされたような死に顔は、希望の光を与えてくれたのかもしれません。たとえ今、人間の手で救われることがなくても、神が自分たちの魂を救ってくださるかもしれないと。

  やがて、少年を抱きかかえて歌う人の歌声に合わせて、周りの人達が小さく歌い始めました。その曲は少年を見送った後もいつまでもそこにいた人々の心の中に残り続け、監視員に見つからないように、こっそりリズムをとりながら、声を出さずに歌い合うこともあったそうです。あの曲は、歌っている間は辛いことを軽減させてくれる慰めとなり、亡くなって行く人たちを悼むレクイエムにもなったのです。」

サイモンはそう言って、また青い月を見上げて、目を細めた。
「僕は月を見る時、時折・・・そう、特に月が美しい満月の晩には、アウシュビッツ・ビルケナウ収容所に捕らわれた大勢の人たち一人ひとりの顔が浮かんでくるのです。まるで自分が月に昇ってそこから彼らを見ているかのように・・・あゝ虐げられた人達の顔、顔、顔、顔・・・その表情は、初めは硬い・・・でも、月の光が差して彼らが照らされると・・・表情が変わっていくんだ・・・唇が動き始め、歌うんだ・・・あの曲、天空への扉を。そして、どんどん人が集まってくる・・・歌いながら。その中に祖父の顔を見つけるんだ・・・祖父は手を合わせ、祈りながら歌っている・・・。その人たちの瞳には月が映る、美しい月が。その光の真ん中に、愛する人の姿が映っている・・・」
サイモンは、子どものように懸命に言い放った。サイモンの中には、子どもの頃からいつも願いがあり、希望があるのだろう。それは、決して消えることのないもの。

「思い出の曲ですか・・・なんて・・・そんなことを言ってしまって・・・ごめんなさい。」
「ううん、そんなことないですよ、ミミ。僕は、ミミにこうして話ができて、嬉しく思います。」
テーブルに置かれたサイモンのグラスから、月の光が伸びていた。
「サイモン、聞いてもいいですか。もし差し支えなければ・・・お祖父様はどうして、独房に入れられたのですか?」
「それを話すと・・・長い話になります。それでも、いいですか。この話をするなら、僕は最後まで話さなければ・・・と言う気持ちになるでしょう。これは生と死の狭間で起きた信仰と祈りの話になっていきます。しかも・・・神による愛の業・・・祖父に起きた愛の奇跡・・・神の神秘にまで話は及びます。あなたを驚かせてしまうかもしれません。この話は、祖父はほとんど人にしていません。けれど・・・あ!今、思い出しました。ミミ、昨日、教会で、『省みる時、聖なる水が流れ、まことの祈りに辿り着く』という言葉が浮かんだと。・・・神様が・・・ミミに語ることをお望みのような気がしています。理解するのが難しいかもしれないけれど、最後まで聞いていただけますか。」
「サイモン、ありがとうございます。その言葉と何か関係があるのですね?私は今、とても大切な時間を過ごしているような気がしています。もしわからなくても、いつかわかる時が来るかもしれません。ですから、わからなくてもお聞きしたいです。

  アデレーヌは初めてお会いした時に私に何かを感じてくださいました。そして彼女の言ってくださったサインを大事にして旅をして・・・という言葉。この旅のサインの始まりは一冊の本とそれに挟まれていた一枚のしおりです。いくつか与えられたサインの延長線上に、今があるような気がしています。そして、これも何かのサインになっていくのかもしれません。ですから、お話しください。お願いします。」

青年と祖父の友情

  サイモンは、深く頷き、唇を噛むと振り絞るように語り始めた。
「それは、ひどく強い雨が降る日だった・・・と、祖父から聞いています。その日は、いつもよりも労働時間が長く感じられ、みんな疲労困憊していました。労働を終えてバラックへ向かっていた時、祖父の側を歩いていたユダヤ人の青年がよろけて、倒れ込んでしまったのです・・・それも、監視員の方へ向かって。監視員は、青年が自分に襲いかかったと思って、殴る蹴るの暴行を加えました。少し離れたところにいた監視員の上役がその様子を見つけてやってくると、監視員は青年が脱走を企んでいると思い込みしようと襲って来たと、根も葉も無いことを言いつけたのです。上役から青年はさらに暴力を振られて血が流れ、泥にまみれました。彼は体が大きく丈夫そうに見えましたが、ひどく弱っていると祖父は知っていました。祖父は彼のそばに行き「大丈夫か」と声をかけていたら、監視員はお前も共犯かと詰め寄り、祖父も一緒に殴られ血を流しました。

  日頃から、歯向かえば命がなくなることを知っていた人達は何を言われようと言い返すことはありませんでした。しかし青年は、祖父は関係ないとかばい、力を振り絞るように祖父の身の潔白を訴えたのです。彼の心は傷ついていました。そして半狂乱のようになって泣き叫びました。自分も脱獄なんて考えていないと。しかし監視員の上役は、青年を銃殺刑に処すと言葉を投げつけました。祖父は、以前青年から、将来を誓い合った幼馴染がいるのを聞いていました。祖父は、『愛する彼女のことを想いなさい、彼女が生きていると信じることだ、どこかにあなたを愛して待っている人いると思いなさい』と、彼を励まし続けていたのです。

  祖父は咄嗟に自分が身代わりになろうと思いました。心傷ついたままで彼を死なせてはならない。生きてほしい・・・いつかここを出られれば、彼の望む将来が開かれるかもしれない・・・そして、青年に代わって自分がその刑を受けると、監視員とその上役に申し出たのです。

  それから他の上役や監視員が4・5人近づいてきて、青年と祖父から少し離れたところで話し始めました。それは祖父の処罰について話し合っているようでした。

  祖父は青年に『いいかい?しっかりするのだ。涙を拭くんのだよ。彼らが戻ってきたら、必ず目立たないように、静かにしていなさい。今の様子だと処罰は私に下るだろう。後のことは私に任せなさい。君は生きるのだ、いいね。愛する人を思い続けるのだよ。』青年は『なぜそんなことをしてくれるのですか、僕のために。どうして?』と尋ねました。祖父は『私は君を愛おしく思っているからだよ。君は今、私のことを必死で守ろうとしてくれたではないか。強く愛してくれたではないか。真実を貫こうとしたではないか・・・君は処罰を受けなければならないようなことは何もしていない・・・だからどちらが刑に処せられても同じだ。いいかい?君は自分のことより、私のことをまず心配してくれたじゃないか。君の中には愛があるのだよ。その時、私は君をさらに愛したのだよ。君を突き動かしたのも、私を突き動かすのも愛だよ。いいかい、愛は不滅だ。いいね、私がいなくなってもしっかりするのだよ。君に愛がある限り、どんなことがあっても君は不滅だ。愛だよ。愛。君にはこれから、愛を貫き、真実を追い求めていける力が、きっとある。この胸の中にきっとある。生きなさい、君は若い。君なら乗り越えられる。そんな顔をしないでおくれ。私のことは、心配ない。私は天で生きるよ。はは・・・もしすぐに天国に行けなくても、神様がきっと私を鍛えてくださる、天国に行く途中でね、大丈夫だ。私を愛してくださっているから。大丈夫だよ・・・ほら、もう離れなさい、私から。彼らが戻ってくる・・・いいかい、愛する人を想い浮かべなさい、そして生きるのだよ・・・』

  監視員らに祖父は腕を掴まれ、青年から引き離されて引きずられながら、その場を立ち去りました。祖父の申し出は、彼らに受け入れられました。しかし、銃殺刑ではなく、渇水飢餓の刑・・・祖父はアウシュビッツ第一収容所の独房に入れられたのです。」

「まあ・・・そんなことが・・・」
私は両手で顔を覆った。しかし、この話は最後まで聞かなければならないと思った。