第六話 天使の翼

ここまでのあらすじ

 〜〜〜 ニュースキャスターとして報道に携わるミミは、ある日、仕事帰りに古本屋で、フランス語で書かれた青い表紙の一冊の本と出会う。本に挟まれた一枚のしおりに貼られた「古い風景写真」に惹かれていき、ミミはその場所を訪れようと決心する。しかし、どんなに探しても手懸りが見つからない。諦めようとしていた時、偶然、放送局内で、今はフランスで働いているはずのディレクターと再会し、彼女の手を借りて場所を突き止め、太陽の煌めく真夏の空の下、スケッチブックを手に日本を発った。
 海辺にある異国の地は、今では観光で人が訪れることのない寂れた町になっていた。しかし、空から降り注ぐ光は神秘的で瑞々しく、光の洗礼を受けたかのように、ミミの心に新たな光が射し始める。老婦人アデレーヌの娘クリスティーヌの切り盛りする海の見える宿に滞在するミミは、朝靄の中で響くクラシックギターの音色を耳にする。ギターを弾いていたのは、クリスティーヌが紹介してくれた扉職人サイモンだとわかる。彼は、完成したばかりの扉を一緒に搬入しに行こうとミミを誘う。— 光、風、青いリボン、十字架、虹、白い鳩・・・という秘めやかなサインと、巡り会う人々と共に、旅のページはめくられていく。〜〜〜

光の海岸線を馬車が行く

  ポックポック、カタンガタン、ポックポック、ガタンカタンと、音がした。四階の窓から顔を出して下を覗き込むと、真昼の太陽の射す石畳の道に馬車が入って来た。石造りの建物の壁一面を染める陰影は、一直線に伸びる道の光を際立たせていた。馭者台に座っていたサイモンが立ち上がった時、クリスティーヌが犬のヴェラを連れて表に出てきた。私は急いでリュックを肩にかけ階段を降りると、二人の元へ向かった。彼の髪とシャツが陽の光を受けて輝いている。
「やあ、ミミ!お待たせしました。扉を荷台に載せるので、もう暫く待っていてください。」
彼は、革の手袋をした手で道端に置いてある布に包まれた扉を掴んだ。そして、登山靴のような頑丈な靴を石畳に押さえつけながら、太い腕で担ぎ上げた扉を荷台に乗せ、手早くロープで括りつけていった。黄土色の薄手の皮のチョッキが旗のように揺れている。

  馬車に繋がれた白い馬と淡いグレーの馬に、クリスティーヌがバケツいっぱいの水をやると、二頭は喉が渇いていたのか、勢いよく飲み始めた。人形を手にやってきたマノンは、その様子を暫く見ていたが、バケツが空になったとわかると、水を注ぎ水鉄砲を浸しては水を飛ばして遊び始めた。濡れて照り返す石畳に、歩いていたサイモンの群青色の靴が差し掛かった。すると、靴は青く光った。

  — どうしてなのだろう。さっきからサイモンに、光のベールがかかっているように見える。彼が動く度に光はなびき、サイモンが触れるもの全てに光が及んでいくようだ。扉、ロープ、ヴェラ、馬車の車輪・・・。そして、まるで映画のワンシーンのように、バラバラのはずのそれぞれの動きが、ある一つの音楽に乗って動いているかのように、調和していく。眺めているうちに、私の脳裏で音楽の調べが流れ始めた。初めは、今朝、サイモンの弾いていたCavathinaのようなギターの音色。それにクロスしながら、曲は春の芽吹きを感じさせる、流麗な管弦楽のハーモニーへと変わっていった。

  準備が整うと、私は我に返って、クリスティーヌと軽く会話しながら馬車に乗り込んだ。サイモンは手綱を持ち、馬に掛け声をかけ馬車は進み始めた。馬車は心地よい蹄の音と共に海岸線を走って行く。目の前の二頭の白い馬と淡いグレーの馬の立て髪がフサフサと風に揺れた。

「しばらくこの海岸線を走ります。それから、丘を越えて、向こう側の町に行きます。そのしおりに写る入江が見つかるかどうか、わからないけれど・・・」
サイモンは、しおりのことを気にかけてくれていた。彼はどちらかというと、口数は多い人ではないように見える。けれど、時折、私を気にしてこちらを見てくれた。おそらく、初めて馬車に乗るのだとわかったのだろう。それは、言葉で何かを言われるよりも、かえって優しさが感じられた。

  馬の蹄の音と潮風の引き寄せる波音が流れていく。サイモンが海の方を見ると、その度に瞳に陽が差し込んだ。すると、工房で見た時のように、青と水色と緑がかった水色に変化し始める。まるでRubanの海ように。空から注ぐ光線は、彼の横顔の輪郭を映えさせた。

  —-サイモンの横顔を見ながら「ミケランジェロを疑う者は、ダビデを見よ!」という言葉を思い出していた。フィレンツェのアカデミア美術館で、母がダビデ像に感動して微動だできずにいるのを見た父が、すれ違いざまに言ったらしい。歴史家羽仁五郎の言葉だった。そうなのだ、かく言う私も、あの場所を訪れた時、同じように動けなくなった。いや、正直に言うと、腰を抜かした。静かな廊下の角を曲がった瞬間だった。立ち現れた巨大なダビデ像の強烈な存在感。ようやく歩き出し、近づいて見上げたダビデ像は、どの角度から見ても「一点も欠ける所のない、傑作中の傑作」だった。サイモンの横顔はそのダビデ像にどこか似ていた。そしてバチカンのサンピエトロ大聖堂で吸い込まれるようにして見たミケランジェロのピエタの計り知れない清らかさと深さが共存していた。

  私はスケッチブックを開いて、馬車に揺られながら鉛筆を握り、描き始めた。

  満面に光を讃える大海原。
空の彼方に、風が素早く走ったのだろうか。白雲を巻き上げ、陽の光を演出し始めた。やがて雲間から、光がスポットライトのように降りて来て、大海原のステージで踊るバレリーナを追いかけるかのように、優雅に動いていった。次第にスポットライトは増えていき、交差し、回り出す。風雲の大きな息に巻かれて、あっという間に光たちは溶け合い、満面の海に光の絨毯を広げて行く。そして空を賛美するかのように、海は光を一気に空に送り返した。空と海の一連のこの光景は、ハープの奏でる優雅な音楽のようであり、溢れる愛のようであり、私の心をおおらかにした。

  —- Ruban、なぜか惹かれて辿り着いた町。ここがどんなところかは詳しくはわからなかった。けれど、今はっきりとわかるのは、ここが光の溢れる場所であり、光の中で美しく息づく場所であるということだ。何もなくてもいい、この光があれば・・・そんな思いにさせる土地なのかもしれない。きっとサイモンもそう感じているのではないだろうか。彼の工房に、あの壁一面の大きな窓を作ったのだから。

  サイモンがまた光を見つめる。目を細めて。また瞳の色が変わった。空の彼方に何を想っているのか。
あの工房でも、こんな風に光と毎日対話しているのだろうか。現代的でありながら、剥ぎ落とし、在るべきものだけで組まれたような静謐なあの空間。白壁、光、扉。そこで彼は光に祝福されながら扉を作っている。でもなぜ、光に祝福されていると感じるのか。サイモンはいつも光を敏感に捉える。空から注がれる光を見つめる眼差し、光に応えて微妙に表情を変える横顔。それを横目で見ながら、思いを馳せる。深くそして高いと感じさせる彼の何かが、私の想像を膨らませていく。それは取材者として、人と真正面から対峙し、人間を、人間を通して今の社会を、社会の未来を見つめ続けて来たせいもあるだろう。彼の中に生きる何ものかに、探求してやまない真実があるということが、既にわかって来ていたのだった。

  馬車はそのうち右手に曲がり、林檎の丘の上へと上がっていった。
「もう、スケッチはよかったですか?」
「えゝ、まだ途中でしたが、後は宿に帰ってから描き加えます。風景は目に焼きついていますから。」
サイモンは、頷いた。
「もう少し行くと、右手の奥の方に、アデレーヌの家があります。この道は、アデレーヌの敷地の中にできた道ですね。この半島の左右の町を繋いでいます。」
林檎の樹々の中で小鳥が囀り、時折、小鳥たちが目の前を横切っていった。真夏なのに、どこか涼しげな空気が流れていた。

ソフィーの家の新しい扉

  緑に囲まれた道は、やがて乾いた石畳の坂になり、石塀の町を馬車はゆっくりと走った。この旅で、最初に私を子ども達が迎えてくれた町。スケッチブックに天使の翼をつけた子ども達を描いた町だ。「思索の丘」を教えてくれたのもその子ども達だった。馬車に気がついた子どもが近づいて来た。その子は私と目が合うと、満面の笑顔になって手を振ると、どこかへ駆けて行ってしまった。

  ある家の門の前まで来ると、サイモンは馬車を止めた。
「ミミ、着きました。このお宅です。」
そう言って、彼は馬車を降りて二頭の馬を撫でた。このお宅の門は洒落たデザインだった。黒い鉄製のアーチの中央には羽の装飾がついている。これがこの家の家紋のようなものなのだろうか。そしてその羽から、両サイドにアーチに沿ってリボン状の鉄細工が波打ちながら伸びていた。サイモンが門を潜り、呼び鈴を鳴らすと玄関の扉が開き、中から緩やかに髪を束ね、水色のブラウスを着た三十代半ばくらいのご婦人が白いエプロン姿で出て来た。サイモンとその人は話しながらこちらに出て来る。私は馬車からおりて、門の前に立った。サイモンは、既に私のことも話していたようだ。そのご婦人は、朗らかな表情で私に手を差し出して言った。
「初めまして。ソフィーです。」
頬に笑窪ができる。
「ありがとうございます。ミミです。日本から来ました。」
「あら、そうですか。遠いところからありがとう。」
とても感じのいい人だった。
「あら、もしかして、ちょっと前に、息子のアランに絵を描いてくださった方かしら?」
「あゝ、そうです。この間。」
「まあ、それはありがとうございました。アランやお友達がとても喜んでいて、その絵は額に入れて飾っていますよ。よかったわ。あなたにお会いできて。」

  サイモンは、扉を玄関先まで担いで行くと、早速古い玄関と新しい扉を交換する作業を始めた。布を取ると、中から白と淡いエメラルドグリーンで塗られた扉が現れた。
「まあ、素敵だわ。思っていた以上だわ!サイモン、ありがとうございます。このエメラルドグリーンもいいですね。本当に牧場を思い起こさせます。」
ソフィーは感激して扉を見つめていた。

  扉には、上の方に小さなガラスの小窓があり、ガラス版にはアールヌーボー調の羽のレリーフが施されていて、その下にうっすらと、側によらないとわからないくらいの羽の絵が描かれていた。サイモンが古い扉を外し、新しい扉を持ち上げて戸口の石壁の金具に扉をはめようとした時、網状になった鉄細工の丸いドアノブの中に入れられた鈴がなり、そこからぶら下がった繊細な鉄細工の羽が揺れた。そこにソフィーの子どものアランが友達を連れて帰って来た。子ども達は私を歓迎してくれた。
「ねえ、ねえ、ママ!ママ!この人がこの前、翼の絵を描いてくれたんだよ!」
瞳をキラキラさせてそう言った。
「えゝ、さっきお聞きしたわ!」
サイモンがアランに
「翼の絵を描いてもらったの?」
と言うと、アランは家の中に入って、額に入ったその絵を持って来た。
「見て!これだよ!」 
とアランがサイモンに見せると、
「いい絵ですね、で、この翼は?」
と私に聞いて来た。
「えゝ、子ども達を描いているうちに思いついて、子ども達の絵に翼を描き加えていったのです。そうしたら、子ども達がとても喜んで・・・」
「あゝ、そうですか。あなたが思いついたのですか。」
そんな話をしていると、急にアランが
「ねえ、あそこの塀に翼を描いて!」
と言い出した。
「え、あそこの塀に?」
「うん、そう、あそこの塀に翼を描いて!こっちに来て!ここだよ。ここ、ここ!ここに描いてほしいの。」

  サイモンと私は、ちょっと驚いたが、きっと二人とも同時にイメージが湧いて来たに違いない。なかなかいい感じだと。そして目配せをして笑った。ソフィーの顔を覗き込むと、
「もし、お二人がいいと思うのでしたら、描いていただきたいわ」
そう言った。その時、サイモンは、この町の人たちに信頼されているのだと思った。

  ふと見上げると、玄関の真上の三角の屋根の天辺に、白い鳩がとまっているのが見えた。
(また、来てる・・・あんなところに白い鳩が。不思議だわ。まるでついて来て、こちらの様子を窺っているみたい・・・)
  サイモンは、馬車の荷台に上がり、塗料と太い筆を下ろし、私の前に立つとそれを差し出した。
「え、私、どうして?私が描くのですか?」
「あなたが描くと子ども達が喜びます。先ほど、絵を見せてもらったが、あなたは描ける人だ。」
アランと手を繋いで立っているソフィーも頷いた。
サイモンからペンキと筆を受け取ると、子ども達に声をかけた。
「誰に立ってもらおうかな。やっぱり言い出しっぺのアランね!ここに立って!しばらくじっとしていてよ。さあ、ここから翼が生えて来ますからね!」
子ども達は私の周りに来て、くすぐったそうに笑いながら、描く様子を見ていた。肩のあたりから二つの翼の輪郭を描くと、今度は、門を挟んで向こう側の石塀にも子どもを立たせて描いていった。一枚一枚白い羽を重ね、ところどころ水色とクリーム色も添えた。

  完成すると、子ども達は、かわるがわる石塀にもたれてはしゃいでいた。これから、この路を行き交うたびに、子ども達はこの前に立つのだろう。そう思うと嬉しくなった。そんな光景を見ているうちに、ふと一つあることが浮かんだ。
「ねえ、サイモン、この門のリボン細工、ここだけ水色にしてみてはいかがかしら。奥の玄関や翼と合っていませんか?」
「あゝ、そうだね、とても美しい。周りと調和しますね。」
ソフィーも大賛成し、二人でリボン細工を水色の塗料で塗り始めた。その間に、彼女はお茶の準備をするからと言って家の中に入って行き、暫くしてからトレーに紅茶ポットやお菓子などを載せて庭先のテーブルに運んで来た。そしてテーブルのセッティングを終えると、こちらに向かって歩いてきた。私たちはすでに水色の塗料を塗り終わり、私はスケッチブックを再び開いて門と奥の玄関を描いていた。ソフィーは門を潜ると、邪魔にないように静かに私の背中の方に回って、後ろからスケッチブックを覗き込んだ。そして、そのまま視線を上げて、完成した門を見た。
「うわあ・・・なんて素晴らしくなったのでしょう!見違えるようだわ!」
門の鉄細工のリボンが水色にすっかり塗り替えられて一気に明るく、さらに美しい門構えに様変わりした様子を見て、ソフィーは目を輝かせていた。
「この門の雰囲気は、ソフィーによく似合っていますよ。」
そう言うと、彼女は目を細めて喜んだ。そして
「本当に素敵です。ありがとうございます。絵の方はまだかかりますか?あゝもう、いいかしら?では、さあ、どうぞ。お茶の準備ができましたから、お庭にいらしてください。」
そう言って、庭に案内してくれた。席に着くと、ソフィーは、エメラルドグリーンにミルクを溶かしたような色のポットの柄に華奢な指を掛けて、私たちの紅茶茶碗に紅茶を注いでくれた。いい香りが湯気と共に立ち上る。それから彼女は、お手製のレモンケーキを切り分けお皿に盛ると、その隣に、三日前に子ども達と一緒に作ったという、野花とお人形が描かれたアンティークのアルミ缶の中にお行儀よく並べられた、アーモンドやキャラメルが絡められたクッキーやバニラ風味のビスケットを摘んで、添えてくれた。

  子ども達は、少し離れたところにシートを敷いて、ピクニック気分でマグカップにミルクを入れて、自分たちが作ったクッキーを美味しそうに食べていた。ソフィーは、新しい扉はとても気に入ったこと、水色のリボンは思いがけなかったことで、心ときめくと話してくれた。二人と話しているうちに、門と玄関を描いておきたいと思い、私は少し中座して、スケッチブックと鉛筆を持って門の外に出た。そして簡単にスケッチして戻って来ると、ソフィーは私の顔を見て何かを思いついたようで、話しかけてきた。

「そうだわ!サイモン、私もいいアイデアが浮かんだわ。ぜひミミを、あの教会に連れて行ってください。ミミ、その教会には、サイモンの作品もあるのです。」
「そうですね。この後のご予定は?よろしければ、この後教会によりますか?」
そう、サイモンが私に尋ねた。
「えゝ、ぜひ。この後は、大丈夫です。その教会へ行ってみたいです。」
すると、この会話を聞いた子ども達が、自分たちも教会に行きたいと言い出した。そして空になった荷台にみんなで乗って一緒に行くことになった。別れ際にソフィーが
「そうだわ。もう一つ、いいアイデアが浮かんだわ。ミミ、アデレーヌのことはご存知なのよね。実は、明日の午後、アデレーヌのところで、ちょっとしたお食事会をしようと言っているのです。新しい扉もできたから。もちろん、サイモンもいらっしゃるし、それからクリスティーヌも来られるわ。アデレーヌには私からも話しておくわ。彼女もきっと喜ぶと思うけれど。サイモン、いいでしょ!」
「えゝ、もちろんですよ。」
「ありがとうございます。えゝ、ぜひ伺わせていただきたいです」
「では、いってらっしゃい。みんなもいい子にして行ってね!」

白い翼の教会

  馬車は教会に向かって行った。 暫くすると、なだらかな丘の上に、小さく白い教会が見えて来た。やがて教会に近づいてくると、教会の前に何かが点々としているのが見えてきた。
「教会が見えたよ!」
と誰かが叫んで、
「早く!早く!」
と大合唱になった。

  教会に近づいて来て、サイモンがどうどうと、馬に声を掛けると馬車は止まった。子ども達は一斉に荷台から降りて、教会の前にある広々とした広場へ駆けて行った。私も馬車から降りた。入口の門は、やはり鉄製で、アーチに沿うように文字が溶接されていた。それは旧約聖書の詩篇の言葉だった。

神はあなたを救いだしてくださる。
仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。
神は羽を持ってあなたを覆い、
翼の下にかばってくださる。   
     詩篇91編3〜4節

私は声に出して読んでみた。
「神は羽を持ってあなたを覆い、翼の下にかばう・・・苦しい時にこれを読んだら、慰められますね。」
サイモンは頷いた。
「本当に、神を信じて生きていると、そんなことがあります。窮地に立たされた時に。」
そうサイモンは言った。

  広場に点々と置かれていたのは、鉄でできた椅子だった。背の高いもの低いものなど、その背丈はばらばらで、椅子の背には木製の天使の翼が付けられていた。椅子の骨部分は細く、白い翼が宙に浮いているようにも見える。あゝ、この椅子に座ったら、その人の背に天使の翼がついているように見えるのだわ・・・。走り回っていた子ども達が次々に椅子に座り始めた。

「まあ、なんてことでしょう。子ども達が天使になったよう・・・私が描いた絵と同じですね!ふふふ」
「そうですね。本当に。」
私も子ども達に混じって座ってみた。
「翼が生えたようですか?」
そう言ってクスッと笑うと、サイモンも微笑んだ。

  椅子や翼に触れながら、椅子と椅子の間を縫うようにして歩いて行った。広場の端には、教会の屋根よりもっと高い、翼の椅子が立っていた。梯子で登れるようになっている。椅子の先端には鐘が吊るされていてロープが地面までぶら下がっている。あそこに座ったらどんな風景が見られるのだろう。そう思って上を見上げていると、子ども達が寄ってきてロープを握って、ガラーン、ガラーンと鐘を鳴らし始めた。

清らかな祈りの扉

  子供達が遊んでいる間に、教会の扉の前に立った。観音開きの白い扉だった。
「これもサイモンが作った扉ですよね?」
その扉は、あのアデレーヌの祈りの館の扉と似ていた。やはりどこか透明感がある。扉には翼が手彫りされ、彫り込まれたところから、木本来の人肌色が見え隠れして、扉全体を優しい雰囲気で包んでいた。
 
「実は、この教会は、大天使ガブリエル天使が守護天使の教会なのです。」
「ガブリエル天使は、マリア様に受胎告知をした天使ですね」
「そうです。神の言葉を伝える天使だと聞いています。」
「それで、翼をここに・・・」
「そうですね。今朝、ミミは、言ってくださいましたね。アデレーヌの祈りの館の扉を見て、祈りに包まれるような感じがしたと。そして、扉そのものが祈りのような気がしたと。」
サイモンは、工房で私が言ったことを心に留めてくれていた。
「僕は、アデレーヌに初めてお会いした時、彼女があの祈りの館で、祈っている姿を見たのです。その時、この人の祈りはとても深いと感じました。彼女はただ祈っているだけでした。けれど、彼女を通して、清らかなものが僕に流れ着いてきたのです。それは美しい時間だったと思います。そして、そのあと、彼女と一緒にこの教会に来たのです。実はその時、僕は、この教会の扉を作ってもらえないかと、ある人から頼まれていたのです。しかし、実際に見てみないと、僕が本当に作りたくなるか、そして作れるのか、わかりませんでした。ですから、一度観に行こうと思い来たのでした。そしてこの教会に案内してくれたのがアデレーヌだったのです。」

「そうだったのですか」

「ええ、それでこの教会の前に立った時、壁を抜けてすっと中へと引き込まれて行くような感じがしたのです。そのとき、僕は思ったんですね。神に招かれたと。つまり、目の前の扉は開いていないけれども、扉が開いたのだろうと思いました。教会は、『神の体』と言います。つまり、神の心、魂のようなものがこの中にあるということにもなる。だから、全ての宗教や立場を超えて、全ての人に開かれている場所でもあるのです。」
サイモンは右手を扉に差し出し、その肌に触れた。そして指で翼をなぞった。
「深い祈りに至るのは、こちらからも、そして、神からも呼びかけあって至るのだろうと思います。そこで、神と出会えたと感じる人もあるでしょう。けれど、祈りの中では、扉は見えない。開かれているのか閉じられているのか。けれど、実は、祈りというのは不思議なもので、祈りそのものが、既に神に開かれた扉であるし、神とつながるパイプでもあるものなのです。私たちの心の声に神はいつも耳を澄まされる。」

「心の声に耳を澄ませる・・・神が・・・?」
その言葉を聞いて、サイモンは振り向いた。そして私の瞳に視線を合わせ頷いた。また瞳が湖水のように水色と青色に染まって行った。その眼差しは、広場の天使の椅子に移っていき、そして、遠い丘の草原に浮かび上がってきた陽だまりを見つめながら、再びゆっくりと話し始めた。

「私たちが神に語る時、それは既に祈りです。その時、心の中の見えない祈りの扉が開かれて、神と触れ合い交じり合う・・・。僕は、あのアデレーヌの祈りのように、『清らかな祈りの扉』を作りたいと思ったのです。アデレーヌの祈りに触れた時、自分自身が清められた・・・。深く清らかな祈り手は、深い神と交わりがある。清らかな愛の神と。そして、そんな祈り手は、自分のためだけでない、人へその恵みを送り届ける扉となるのです。私は、アデレーヌの祈りの姿からそれを知ったのです。ここは、神の体である教会。教会の扉は、神の体の一部になるのですから、とても大切に祈りつつ作りたいと思いました。神は聖性の源でありますし、『清らかな祈りの扉』を作りたいと・・・。そして、この教会の守護の大天使ガブリエルは、神の言葉を伝えるという役割を持つように、ガブリエル天使様から受ける恵みもいただきながら、ここに訪れる人達のそれぞれの祈りの中で、神が語られることを願いながら扉を作りたいと思ったのです。」

サイモンの横顔が、限りなく透き通っていくような気がした。あのミケランジェロのダビデのように。
「この扉がRubanで初めて作られた扉なのですか?」
「はい、そうですね。でも、実はもう一つ、この教会のために作った扉があります。」
そう言うとサイモンは、教会の左手に回った。

もう一つの小さな扉

 そこには、教会に隣接された小さな部屋があり、そこにわずか90センチ程の高さの扉が見えた。
「これ、随分背丈が低い扉ですね」
「ええ、この部屋は、告解と言って、自分の罪を告白する部屋なのです。」
「聞いたことがあります。罪を打ち明けること。それにしても、どうして扉の丈が低いのですか」
そう言いながら、茶室のにじり口のことを思い出していた。
「ここは、出直していくための部屋です。この部屋で自分の心の罪を神に打ち明け、神と和解して、神の許しを受けます。でも、自分の心ってなかなか、わからないものです。心を低くしていないとわからない。そのために低く作りました。神様は優しい方ですから、私たちが強く反省する心を見たら、許し、もっとよく生きられるように、導いてくださいます。そのためにも神の言葉に耳を傾けることです。けれど、残念なことに、罪深くなると、神との壁ができていき、神から遠く離れていく。そのためにも、日々省みることで、まさにいつも扉が祈りの中で開かれていくことが望ましいのだと思います。誰も罪を犯さない人はいません。いいと思ってやったことも、神の目から見ればそうでないこともある。こんなことは罪ではないと思っても実はそうでなかったりする。だから、いつも心を低くして・・・そんな思いを込めた扉です。幼い子どもの背丈ほどの扉・・・神から見たら、実はどんな人でもそれくらいかもしれません。」

これはきっと教えられたことというより、サイモン自身が実感していることなのだろう。サイモンには研ぎ澄まされた感性があるのだと思う。遊びまわる子ども達の笑い声が聞こえてくる。

「あの・・・教会の中に入ってもいいのですか」

祈りのとき

  聖堂に入ると、壁の高いところにあるステンドグラスの窓から、クリーム色と青とピンクやエメラルドグリーンと水色の光が斜めに降りてきた。その光に彩られながらサイモンは歩いて行き、少し前の椅子に腰掛け、正面の十字架を見上げた。そして、十字を切ると、跪いて静かに手を合わせ、頭を垂れて祈り始めた。その途端、彼の逞しい体が、あの純粋な少年達のように小さな背中になっていくようだった。そして、その真剣に祈っている姿は神の前で無防備な小さな人間に思えた。サイモンはそんなに深く、何を祈っているのだろう。サイモンの言うことが本当なら、神は、この大きな体の中に仕舞い込まれたサイモンの柔らかな魂を、その目で今まさに見つめているのだろう。

  誰にでも、他の人には理解してもらえない心の言葉を持っている。神はその隅々まで知り尽くし、その言葉をどんな風に聞いているのだろう。

  いつのまにか、十字架を見上げているうちに、頭の中をぼんやりと、いや、胸の中をというべきか・・・巡っていく・・・止めどなく・・・止めようにもぐるぐると連なっていく・・・終わることを知らない引き寄せる波のように・・・。これが祈りへの誘いの門・・・?そして目を閉じる・・・。

  悲しみ、苦しみ、迷い、後悔、罪悪感、嫉妬、憎悪・・・様々な感情が渦巻いて、もつれ、それが誰かに罪として及ぶこともある。本当の答えが知りたくて、どんなに足掻いても、どんなに考えても、誰に聞いても、自分に問うても解決できないことに、遭遇することもある。それらが人間を苦しめる。真正面から対峙すればするほどや不安に襲われることもある。

  しかし、それでも対峙し続け、問い続けて本当の答えを見つけ出す者もあれば、それに耐えられず諦めてしまい、いつか人生の上澄みを飲んで生きようとする者もあるだろう。完全に折れることなく、苦しみ続けられるのは、一つの大きな才能でもあるのかもしれない。何れにしても、おそらく神は、すべての人の心を見ているという。一瞬一瞬。今この時も。

  そして「その答え」を、もしかしたら、神は持っているのだろうか。その神にしかわからない答えがあるとしたら、苦しみ続ける者達に、間違った道を進む私たちに、伝えたいと思うのではないだろうか。また、その答えをつかめる方向へと進めるように、導きたいのではないだろうか。あるいは、どんな試練に合わせようと、その答えを掴んでほしいと思うのではないか。

  再び瞼をあげて、十字架を見ている時だった。ふと、イエス・キリストは、十字架にかけられた時、その死を迎える瞬間、何を祈ったのだろうかと思った。裏切りや、嫉妬、憎しみ・・・によって、理不尽な形で人によって追い詰められて、命を奪われたと聞く。メシアとしての役割を担って人として生まれたというのに、その救おうとしている人々によって裏切られ、ましてや命を奪われようとするのは、どんなに苦しいことだろう。愛が深ければ深いほど、苦しみは大きいものだ。傷ついていたのではないか。それは体だけではない。心が傷ついていたのではないか。そして、傷つきながら、人々の救いを祈ったのだろう。

  そういえば、クリスティーヌの宿の部屋に置いてあった聖書を開いた時、その頁に「神は愛」とあった。神を一言で言うのなら愛だと。もし、愛そのものの心であるとするなら、自分がどんな犠牲になろうとも、愛する人を許してください。いつかよくなるよう、導きますからと祈るのではないか。ぼんやりと、祭壇の向こう側に掛けられた十字架を見ていた。そして浮かんできた言葉があった。

〜〜 省みる時、そこに聖なる水が流れ、まことの祈りに辿り着く〜〜

  省みる時、神によって罪が洗われ、神の神秘な浄めを受けて、神の愛が注がれる・・・それは、神との新たな交わり。そして、心から清らかな愛の祈りが生まれていくようになる・・・そんなイメージが湧いてきた。
 
  サイモンは祈り終わると立ち上がった。その頬には、涙が伝い流れていた。それに私が気づいたとわかったサイモンは
「あゝ、亡くなった祖父のことを思い出したものだから。でも、悲し涙だけではない・・・喜びの涙も入っているんだ・・・」
そう言った。
「ミミは、祈れましたか?」
「祈れたかどうかわかりません。けれど、いろいろなことを思いました。そして、ある言葉が浮かんできました。」
「どんな言葉ですか?」
「きっと、サイモンのお話をお聞きしたからだと思いますが、『省みる時、そこに聖なる水が流れ、まことの祈りに辿り着くのです』」
と言う言葉です。
「いい言葉ですね。」
「なぜか・・・羽がふうっと、落ちてくるみたいに、降りてきた感じです・・・・あ・・・、
サイモン、そういえばこれ・・・」
胸のポケットにしまっていた白い羽を差し出した。
「これは?」
「それが、馬に水をやろうと、ソフィーの家のお庭で井戸の水を汲んでいた時でした。突然、白い鳩が飛んできて、目の前を通り過ぎて、羽が二枚落ちてきたのです。これ・・・一枚差し上げます。二枚落ちて来たのも意味があるかもしれません。アデレーヌも言っていました。サインに心を傾けてと。」
「ありがとう、ミミ。あなたには、白い羽が降りてくるのですか?」
「いえ、初めてです。ただ、私がここに来る前から、クリスティーヌに連絡を取る度に、クリスティーヌの前に白い鳩が来るようになったそうなのです。実は、今朝、工房から帰ってきたときに、白い鳩があなたの工房の屋根にもとまるのを見ました。」
「そうだったんですか」

  ふと、サイモン越しにぼんやりと白い鳩が浮かんでいるのが目に入った。それは、祭壇の向こうの壁に掛けられた十字架の上にある白い鳩の絵だった。さっきまで陽に照らされて、鳩の姿がよく見えなかったのだった。そういえば、聖画で鳩を何度も見たことがある。サイモンは振り向いて、
「白い鳩はね、神の聖なる霊、聖霊を表すのです。ミミ、あなたは今日、ここに来るべくして訪れたのかもしれませんね。神に招かれて。そして、見えないと扉がいつのまにか、開かれたのかもしれません。」

Rubanに来たその日、あの「思索の丘」で見た幻の白い鳩のことを思い出していた。

  私たちは、教会を出た。サイモンが広場で遊び回る子ども達に声を掛けると、子ども達がいっせいに彼の周りに集まってきた。子ども達はサイモンのことが好きなのだ。そして彼らは一緒に馬車へと歩いて行った。突然、アランがサイモンに何かを告げてその輪から離れて駆けて行き、高い椅子まで来ると、ロープを握って鐘を鳴らし始めた。

  私はゆっくりと、広場の翼の椅子を一つひとつ見つめながら歩いて行った。するとふと、一番小さな赤ちゃんが座るような椅子に目が止まった。その白い翼に、一枚の小さな羽がひっついて風にゆらゆら揺れていたからだ。けれど、持ち帰ろうとは思わなかった。なぜなら、その羽はたった今、生え始めた天使の羽のように思えたからだった。

  馬車まで来ると、サイモンはアランに声を掛けた。アランが戻って来るとサイモンは、
「さあ、行こう!」
と言って、馬車は走り出した。西の空は柔らかなピンク色に染まり掛けていた。