第五話 白い鳩

クリスティーヌの宿

  西の空には、フラミンゴの羽のような朱色の雲がふわりと浮かんでいた。そして夕陽は、Rubanのあらゆる坂道を染めていった。

  宿となる建物の前には、アデレーヌの娘でマノンの母親のクリスティーヌがすでに待ち構えていた。遠目に坂道を下りてくる私たちを見つけると、大きく手を振った。気づいたマノンは、私達の手を振りほどいて一目散に駆けていき、クリスティーヌに抱きつくと、顔を見上げてしきりに話し始めた。

  クリスティーヌとは、この旅の前に何度かやり取りをしていたから、親しみを覚えていた。それだけに、出会いが楽しみだった。彼女は満面の笑みを浮かべて手を差し出し、出迎えてくれた。
「長旅でしたね、疲れたでしょう。それにしても、私より母と娘に先に出会っていたなんて驚きましたよ。」
「本当に、こんなことってあるのですね!」

  建物は石造りの六階建てで、横に伸びる道の向こう側に海が広がっている。海岸の岩場はぐっと下の方まで段々になりながら降りていた。そこに古い石造りの建物が点々と立っていて、それらを繋ぐ細い坂道が連なっている。フロントの前で、クリスティーヌから町の地図を渡されて説明を聞いている間中、マノンは、落ち着きなく辺りをうろうろしていた。そして、クリスティーヌに早くお部屋に案内したいと、合図した。待ちきれなくなったマノンは、
「早く来てね」
と小声で言って、先に駆け足で階段を上っていった。

  滞在する部屋は四階にあった。私のリュックを肩から掛けたクリスティーヌが扉を開くと、正面のアーチ型の窓に掛かる白いレースのカーテンがふわりと舞い上がり、風が吹き抜けていった。そこかしこに、鉄製の装飾が施された素朴で愛らしいお部屋だった。マノンは先に窓辺に立って、外を見てとばかりに指差した。近づいて見ると、目の前には、夕焼けに照らされて、水色とピンク色とクリーム色と紫色が波間に織られた海が広がっていた。
「うわ、なんて素敵な眺めなのでしょう!」
マノンはさも嬉しそうに私を見上げると
「ミミは海が好きでしょ。早く、こんなきれいな色の海を見せたかったの!林檎の木から見た時より、海がもっと近くなったでしょ」

  窓のすぐ側には、鉄の装飾が施された木製のチェストがあった。その上には、クリスタル製の30センチ程の十字架と、その隣に、青や水色や無色透明のクリスタルガラス玉が散りばめられた宝飾品のような青い蝶の置物や、ガラスの小さな青い蝶が置かれていた。十字架のクリスタルは、夕焼けに照らされて淡くピンク色に輝いていた。チェストの脇には、肘掛椅子があり、背もたれと肘に、青い蝶の刺繍が見てとれた。

「ここにも・・・青い蝶・・素敵な椅子だわ」
そう言うと、マノンが言った。
「この刺繍はね、おばあちゃまが、作ったのよ」
「アデレーヌが?」
すると、今度はクリスティーヌが答えた。
「そうなの。母は青い蝶を作品にしたり、小物を置いていたりしたのよ。この椅子は、私が以前、使ってもいたものなの。この建物にある家具や小物の多くは、生まれ育ったお家にあったものが多いのよ。」

  神々しい白い光の陽だまりの中で、一針一針、刺繍糸を刺して青い蝶を描いていくアデレーヌの姿が目に浮かんできた。「思索の丘」で青い蝶を見たと話した時、明らかに彼女の表情はそれまでと変わった。アデレーヌの青い蝶への思いは、静謐な美術館の一枚の絵画に隠された画家の心のように、秘められている。私たちは、青い蝶という絆で結ばれているのだろうか。あの時庭で語り合う中で、アデレーヌは、私を一つのサインとして受け取ったのかもしれない。朝も昼も夕も祈るという、庭の奥まった所にある「祈りの館」で、二人でお祈りしてみたい。部屋の隅の丸テーブルの果物籠に盛られた青い林檎を見つめながら、そんなことを思い浮かべた。

  クリスティーヌは、腰を屈めて、端にレースが施された白いバスタオルなどタオル一式を白い籐籠に入れると言った。
「こちらを使ってくださいね。シャワールームはあちらよ。夕食の時間まで、どうぞゆっくりしてください。ポットやティーカップはこちらの棚の中にあるわ。お土産のハーブもこちらの籠に置いておきますね。そうそう、キッチンにも一通りのものはあるから、簡単なものは作れるわ。こちらで自炊して、召し上がってもらってもいいのよ。朝市に行けば新鮮ないい食材が揃うわ。また場所は教えますね。調味料はあの高い戸を開けば、だいたい揃っているわ。他に何かあるかしら。そうそう、マノンちゃん、その手提げ袋の中のフルーツを出してあげてね。ミミ、フルーツも召し上がって。それから、このレモンのバウンドケーキもね。」

  クリスティーヌは、マノンに、あまり長居してはダメよと言い残して、下に降りて行った。

水色の小鳥 チャッピーの訪問

  マノンはベッドに腰掛けて足をぶらぶらさせながら、私がリュックの中から荷物を取り出す様子を見ていた。そして、青い表紙の本と、バッグの中に忍ばせていた青のリボンを取り出して、チェストの上の十字架の隣に置くと、立ち上がって、見ようと近づいて来た。
「あっ、青いリボン、きれいね!こっちにも青いリボンが描いてある!」
興味深そうに、マノンはつま先立ちして、二つの青いリボンを交互に見つめていた。

  その青いリボンは、あの「思索の丘」で、青い蝶が立ち去った後、まるで蝶の化身かのように残されたものだった。そしてもう一つの青いリボンは、本の表紙に描かれたものだ。暫くチェストの上を見つめていたマノンの視線が、窓の外に向かった。そして窓に近くと、じっと見上げながら、マノンが呟いた。
「あれ、チャッピーじゃないかな・・・」
そして、瞬きもせずに目を凝らして見つめながら、
「やっぱり、チャッピーだ。チャッピー、チャッピー!ミミ見て!ほら、あそこ、こんなところに来るなんて!」

  確かに水色の小鳥が飛んでいた。そして、もう一羽、飛んでいた。マノンは、盛んに
「チャッピー!あなたは、お友達も連れて来たの?連れて来たの?」
と連呼した。そして、
「あゝ、ここに来てくれないかな・・・ミミのところに来てくれたみたいに!私のところに来てくれたら、ほんとうにうれしい!そうだ、神さまにお祈りしよう!」
マノンは手を合わせて、急にクリスタルの十字架に向かって、お祈りを始めた。そして、思い出したように目を開けて私を見上げ
「ねえ、ミミ、ミミも一緒にお祈りして!マノンと一緒にお祈りしてほしいの。お願い!あゝ、神さま、私はチャッピーが大好きです。きっと、生まれた時からずっとです。いつか、チャッピーとミミと一緒に遊べる日が来ますように!
いつの日か一緒に遊べますように。チャッピーは、私の心の大切なお友達です。」
それは、真剣なお幼子の祈りだった。あまりにも純粋に祈る横顔を見て、私も手を合わせた。
「一緒にお祈りするわね・・・。神さま、いつの日か心の綺麗なマノンちゃんの夢が叶いますように!」

  初めて十字架の前で、二人で心を合わせてお祈りした。暫く目を閉じて祈った。そして目を開けた時、あろうことか、水色と薄紫色が溶ける大空を背景に飛んでいた水色の小鳥たちが、急降下してきたのだ。そして、まっすぐ窓から部屋に入ってきた。
「ミミ!チャッピーが来てくれたわ!すごい!お祈りが叶った!」
マノンはそう叫んで、その場でピョンピョンと飛び跳ねた。
小鳥たちは、部屋の中を飛び回ると、かわるがわるマノンの頭や肩にとまった。
「ミミ!うれしい!うれしい!あゝ、チャッピーは大好きなお友達を連れてきてくれたのよ。
きっとマノンやミミに教えたかったんじゃないかな?!大好きなの?大好きなの?
この小鳥さん。どんなお名前にしよう!そう、今思いついた。マリーがいいわ! チャッピー、マリーでいい?
ミミ!チャッピーはマリーでいいって、言っているのよね?」

噴水のように高々と吹き上がるマノンの喜びが、私の心にも押し寄せてきた。
「ミミ!嬉しい!ミミも一緒にお祈りしてくれたからだわ。ミミ、ありがとう!お祈りって叶うのね!」
実は、私もそう思ったのだった。お祈りって、本当に叶うのだと。

十字架に結ばれた青いリボン

  マノンにとって、ずっと憧れだった水色の小鳥。
小鳥たちは、これ以上ないという程の愛らしい表情になったマノンと暫くの間遊んだ後、羽を休めるかのように、チェストの上に降りてテクテクと歩き始めた。そして、青いリボンの端と端を二羽の小鳥がそれぞれ咥えた。何をするのだろうかと、二人で見つめていると、小鳥たちはふっと羽ばたき、宙に浮かんだ。そして、クリスタルの十字架の側に来ると、青いリボンを十字架の横棒に垂らした。それから、くるりと十字架に巻きつけ、くるくると回りながら羽ばたき、そのリボンを十字架の交差する部分に、蝶々結びにしてしまった。マノンと私は顔を見合わせた。そうしているうちに、小鳥は、棚の上の小瓶にいけてあった小花を嘴で啄ばみ、蝶々結びの結び目にそれを差して飾ったのだ。一瞬時が止まってしまったかのようだった。

  小鳥たちは大事な用事を済ませたかのように、その後すぐに、軽やかに外へ羽ばたいて行った。マノンはそれを追って窓辺に駆け寄り、空を見上げた。小鳥たちは、天を突くような高い声で歌いながら、空の彼方へと消えて行った。
「チャッピーとマリー・・・」
とマノンは大空を見上げながらそう呟いた後、十字架と青いリボンをじっと見つめ続けた。
「これ・・・チャッピーとマリーが、残していってくれた贈り物・・・」
そう言うと、突然くるりと体の向きを変え、一目散に足音を立てながら階下に降りて行った。そして、この一連の出来事を母親に語るマノンの歓喜の声が、階段を駆け上ってきた。

  ふんわりと結ばれた十字架の青いリボンに指で触れてみた。
マノンの願いは叶った。幼いマノンにとって、これ以上にないという喜び。マノンはこの先、決して祈ることを忘れないかもしれない。神はごく身近にいて、私たちの心の声を聞いている・・・その感覚が私の体のどこかに残っている。マノンの言う「水色の小鳥たちの贈り物」。それは、実は「神からの贈り物」なのかもしれない。そして、何かの「サイン」・・・。水色の小鳥たちは、神の使いとして来てくれたのかもしれない。だから、まるで大事な用事を済ませたかのように、その後、すっと空に消えて行ったのではないだろうか。やはり、何かがあるのだ、何かが。「十字架と青い蝶」・・・いや、そうではない。「十字架に結ばれた、青い蝶」。この「サイン」が心に刻まれていく。なんだか、心のずっと奥で、扉を締め付けていた古いロープが解かれて、少しずつ開かれていく思いがある。

白い鳩とミミとクリスティーヌ

  いつの間にか、西の空を染めた夕暮れは消えていき、東の空に鮮やかな群青色の夕闇のマントが降りてきた。そして、一粒の星が瞬き始めた。

  夕食の時間を告げるベルが鳴った。下に降りると、香ばしい香りが漂って来た。テーブルの席に着くと、クリスティーヌは、林檎酒のシードルのボトルと二つのグラスをトレーに乗せて持ってきた。
「ミミの旅に乾杯しましょう!私もいただくから、一本、開けましょうね」
二人で乾杯をすると、彼女はキッチンに戻っていった。

  前菜を食べ終わる頃、彼女は湯気の立つ魚料理を運んできた。ついさっき、隣の漁師から、この時期には珍しい獲れたての大ぶりのエビが手に入ったそうで、急に献立を変更して、魚介や野菜とローズマリーなどのハーブと一緒に蒸したとのことだった。食べている途中、オレンジの皮とチーズを擦って料理の上に散りばめてくれたのだが、甘酸っぱさとチーズの濃厚さが合間って、料理を一層美味しく引き立てた。暫くして、キッチン台の向こうから、彼女が声を掛けてきた。
「ミミ、次はデザートだけれど、まだお腹に入るかしら?あゝそのお顔なら、大丈夫そうね!夜風も気持ちいいし、あちらの中庭のテーブルでいかが?私も、そちらでご一緒するわ。味見している間に、お腹がいっぱいになったのだけれど、私もデザートは入るわ!ふふふ」

  中庭には点々とカンテラが燃えていた。テーブルに置かれたキャンドルは、万華鏡の模様を描くようにテーブルに灯りを落としていた。古い蓄音機があり、クリスティーヌが叔父から譲り受けたというレコードをかけてくれた。少しばかり針の引っかかる音が入る、甘くゆったりとした歌声が流れていく。すっかりデジタル音に慣れてしまっていた耳には新鮮で、耳の奥に音が馴染んでいく心地よさを覚えた。

  チョコレートと、バニラビーンズがたっぷり入った濃厚なアイスクリームが運ばれてきた。チョコレートは、甘くこってり煮込んでシナモンを絡ませた林檎に、チョコをコーティングしたもので、アイスクリームは、裏庭で飼っているヤギの乳から作ったものだと言う。アイスクリームを浮かばせた少し苦めのカフェオーレが舌に乗った時、苦味から浮かび上がって広がる、ふくよかな甘い味わいが頰をとろけさせた。

「とても素晴らしかったわ、ありがとう、クリスティーヌ。夜風も優しいし気持ちいいわ。それに蓄音機の音が、なんだか心にも体にも染み渡るようだわ。何から何まで、ありがとう。あなたのおもてなしに感激したわ。」
クリスティーヌは、少しはにかんで微笑んだ。その表情は時折見せるマノンの笑顔にそっくりだ。彼女はコーヒーカップの取手に指を通しながらに言った。
「そうそう、ミミ。あなたの探しているという場所の写真を見せてくれますか?」
この宿に到着した時、彼女から、夕食の時でいいから写真が貼られた「しおり」を見せてと言われていたのだ。暫く見つめていたクリスティーヌは、首を傾げて言った。
「やはり同じような風景はあるし、残念だけれど、ここだと言い切れる場所はないわね。でもいくつか心当たりのある場所を、あなたに差し上げた地図に印をつけてあげるわ。」
そう言って、コーヒーを口に含んだ。カップから立ち上る湯気の向こう側で、クリスティーヌの目線が何かを捉えた。目を凝らしたまま、カップをテーブルに下ろした。顔を上げたまま、その目線は何かを追っていた、私の背中越しに、何かを見ている。私が体の向きを変えると、クリスティーヌが言った。
「あそこ・・・あの木の枝のところ・・・」
中庭に立つ木の枝の葉に覆われて、見え隠れする白っぽいものがあった。白い鳩がとまっていたのだ。クリスティーヌは、言った。
「やはり、来たわ。不思議だわ・・・。あなたがここに来たら、こんなことが起きたわ。
そうそう、マノンから聞いたわ。あの水色の小鳥が、あなたのお部屋に入って来たのでしょう?どれも、偶然ではないのだわ・・・ということは、あなたの旅にも、これから何かが起きるのかもしれないわ。なんだか、あなたのことも、あなたの旅のことも、もっと知りたくなったわ。」
クリスティーヌは、木の枝の白い鳩を見上げたまま、手を伸ばしてチョコを摘んで口に入れた。

「私も、なんだか不思議な感覚があるの。この土地に来てから、特に。うまく説明つかないけれど。それで、クリスティーヌ、私が来たら、こんなことが起きたって、どういうことなの?もっと詳しく教えてくださらない?」
「ええ、私もミミに話したいと思っていたの。この町で生まれ育って来て、白い鳩はこれまで、見たことはなかったのよ。白い鳩って、平和の象徴でしょう?特別な鳥だわ。この話はね、ミミから私に、初めて手紙が届いた日から始まるの。郵便屋さんがあなたの手紙を配達してくれて、玄関先のポストに手紙を取りに行った時のことよ。ポストの上に白い鳩がとまっていたの。それもつがいでよ、びっくりしたわ。まるで伝書鳩みたいにとまっているのだもの。それにちっとも逃げないの。恐る恐る、ポストの扉を開けたのだけれど。

それから、ミミから二通目の手紙が来た時も、またつがいで白い鳩がポストの上にとまっていたのよ。目を疑ったわ。それから数日後、ミミからの手紙をもう一度読もうと思って、そこのベンチに腰掛けて手紙を開いたの。そうしたら、また白い鳩が飛んで来て、キッチンの部屋からせり出しているあの屋根にとまったの。さらに数日してから、このテーブルでミミへの手紙を書いていたら、白い鳩がすぐそばに降りて来て歩き始めたのよ。」
「まあ・・・そんなことがあったの?」
「そうなの、それから・・・」
「まだ、あるの?」
「そうなの。ミミと電話でお話ししたことがあったでしょ。その時には、あそこの一番上の窓枠に飛んで来たの。それから、だんだん降りて来てね・・・まるで、二人の話を聞いているみたいに。そしてもう一回。それは三日前のこと。朝市に行っていて、ミミのために何を用意しようかなと思って、果物を掴んだ時、果物屋の後ろの木の枝に、白い鳩が飛んで来たのよ。まるで、それそれ、それがいいよと言わんばかりに、クッククルーって鳴くのよ。その果物は、一応あなたのお部屋に持って行ったわ。」
「あゝさっき、お部屋に通してもらった時に、マノンの手提げ袋に入れてあったあの果物のこと?」
「そう、あのイチジクよ。そして、まさに今、白い鳩がやってきた。ミミが来たら飛んで来るのではないかしらとは、想像していたけれど、やはり、来ていたのね。不思議ね。偶然ではなかったのよ、そう思うわ。水色の小鳥のチャッピーのこともあるし。」

  クリスティーヌは、またチョコレートを口に入れた。話しながらずっとチョコを摘んでいたものだから、指先に溶けたチョコがくっついたらしく、親指と人差し指を順番に唇に含んだ。二人は、白い鳩を見上げながら、なんとなく無言になって、シードルの注がれたグラスを傾けていた。

  「思索の丘」で青い林檎の手前に浮かび上がったような気がした、あの幻の白い鳩のことが思い出された。あれもやはり、「サイン」だったのだろう。林檎、青い蝶、青いリボン、十字架、そして白い鳩・・・・それらが心のスクリーンに、一つひとつ、浮かんでいった。クリスティーヌは、席を立つと、止まっていた蓄音機のレコードに再び針を下ろした。中庭のカンテラのオレンジの揺れる明かりに照らされているかのように、歌声は艶を帯びていた。

  それから次第に話題も変わり、屈託無く話していると、お風呂上がりのマノンが、おやすみの挨拶にやって来たので、部屋に戻ることにした。前を歩くマノンの濡れた髪に、クリスティーヌの手にしたカンテラの明かりが反射して揺れていた。階段のところまで来ると、マノンは私の頬におやすみのキスをしてくれた。クリスティーヌが
「今夜はとても楽しかったわ、ありがとう。どうぞ、ぐっすり休んでくださいね。長旅で疲れたでしょうから。明日はゆっくりで大丈夫よ。」
と言った。一階の灯りが消えて、真っ暗になると、それまで岩場に隠れていたかのように、波の音が轟くように響き始めた。

青い月の光

  四階の部屋に戻り、扉を開けると、開け放たれた窓から、青白い月明かりが差し込んでいた。
一日を終えて急に疲れが全身に行き渡り、ベッドに身を投げた。月の青い光の中で、チェストの上の青い蝶の小物や、青い蝶の刺繍がまるで宙を舞っているかのように、浮かび上がって見えた。天井からぶら下がるシャンデリアは、暗がりの岩場にひっそりと咲く白百合を思わせ、幻想的な月の青い光の中で、夢か現か、ぼんやりと思いを巡らせた。
 
  Rubanという町に脚を踏み入れてからというもの、日本での出来事のすべてが、古いアルバムにしまい込まれて行くようだ。そして、この旅から新しいアルバムを持たされて、そこに一枚一枚写真が貼られていく・・・予期せぬ人生の道が始まったような・・・いや、旅という特殊な時空間がそう思わせているのかもしれない。けれど、脳裏を過ぎっていく風景がある。それは「扉のある風景」だ。人生の先に続く道に、無数の扉がまるで将棋倒しの駒のように、連なっている。重かったり、軽かったり、小さかったり、大きかったり、色々な扉がある。いったいゴールはどこにあるのか。ゴール前の「最後の扉」は、いつどこで見つけ、開くのだろう。その扉の向こうには、何が待っているのか。あゝ「最後の扉」が見えるような気がする。待って・・・その扉の向こう側に誰かがいる!誰かが私の「最後の扉」を開けて、こちらに向かって歩いて来る・・・いったい、それは、誰?

  きっと眠りに誘われて、夢を見ていたのに違いない。いつのまにか朝まで眠り込んでしまったようだ。

朝靄のギター

  遠くで、カモメの鳴く声がしていた。寝ぼけまなこで窓の方を見つめた。
どこからかギターの音色がしている。優しく、どことなく哀愁に満ちた旋律だった。映画「ディアハンター」のあの名曲、Cavatina(カヴァティーナ)にも似ている。サイドテーブルの上の時計を見てみると、まだ6時すぎだった。こんなに早くから誰がギターを弾いているのだろう。窓越しに見える空は、白っぽい光を帯びていて、風が入ると、テーブルの上に置かれた青い本の頁が、ぱらりと捲られていった。ギターの音色を聴いているうちに、だんだんと目が冴えて来てシャワーを浴びにいった。白い籐籠の中のバスローブを取り出して、身を包んだ。

  まだギターの音色が流れていた。濡れた髪をタオルで巻き上げながら窓辺に立って外を見渡したが、海も空もすっぽりと朝陽の光を帯びた靄に包まれて、弾く人の姿は見えなかった。ぼんやりとした風景の中をやや哀愁を帯びた優しい旋律だけが漂っていた。

  やがて水で薄められてゆくように朝靄が晴れて風景が現れ、周囲の建物が浮かび上がって来た。そして、右斜め方向に立つ石造りの建物のテラスに、ギターを抱えた人物が見えた。短めの袖の白いTシャツを着た青年の後ろ姿。朝陽が雲間から光を降ろした時、光の輪郭で青年の体をなぞり、肩の近くまで伸びた髪が光った。遠目に見ても鍛えられた肢体が見て取れた。朝靄も雲もいつのまにか消え去り、青い空が広がる頃、青年は弾く手を止めて、建物の中に入っていった。
 
  海は青い空を映し、真珠のような煌めきを浮かべた。船は白い泡の筋を引きながら港から出ていく。耳の中では、さっきのギターが奏でた曲の旋律がいつまでも響いていた。

クリスティーヌの明るい朝

「おはよう、ミミ!よく眠れたかしら?」
中庭のテーブルの席に腰掛けようとした時にクリスティーヌが声を掛けて来た。
「おはようございます。ええ、お陰さまでぐっすり・・とってもいい朝を迎えられたわ!」
私たちは、実は同い年であることが、昨夜の会話でわかったから、早くも気心知れた友のような気がしていた。
「今、グレープフルーツを絞ってジュースを作っているのよ。これが終わったら、フレンチトーストを焼くから。待っていてくださいね!あゝミミ、よかったら、先にそこのサラダボールのサラダを盛って召し上がってくださる?摘みたてのベビーリーフよ。」
クリスティーヌの叫び声が聞こえた。どうもひっくり返しそうになったご様子・・・。
「あゝ、よかった、グレープフルーツ三個分を無駄にするところだったわー。ミミ、グレープフルーツジュースはね、手絞りが一番なのよ〜!美味しさが」
どうやら、そそっかしいところもあるようだ。明るい朝だ。クリスティーヌはどこかぽかぽかとした太陽のイメージもある。それが周りの空気を弾ませる。
「はは・・・ねえ、クリスティーヌ・・・そのヘアースタイルはどうしたの?はは、トリコロール風ね!」
クリスティーヌを前にして、触れないわけにはいかないほど、珍しい髪型だった。
「マノンが編んでくれたのよ、はは、どう思う?とってもお上手でしょ!はは」

  三本の三つ編みが垂れていた。左右に二本と、上にちょんまげのように一本編まれていた。しかも左右対称ではない。右のおさげには赤いリボン、左のおさげには、青。そして上のおさげには白と赤のストライプのリボンで結ばれ、ごく小さなウサギの人形がぶら下がっていた。
「朝、日課の聖書を読んでいる間に、こんなことに。その上、さっきはミミが起きて来る前に、背中に乗られて、お馬さんごっこ、ははは。ねえ、ミミ、その鉢のレモングラスとミントを採って来てくださる?朝はいいわよ、レモングラスとミントティー。スッキリするわ」
 
  中庭の広場には、貿易商の仕事をしている夫が娘のために船で連れて帰ってきたという黒いフラットコーテッド・レトリーバーがいた。全身黒すぎて、目がどこにあり、耳がどこにあり、尻尾がどこにあるのかよくわからない。その何が何だかわからないところが、可愛らしかった。人懐こくて賢い犬だ。私におとなしくついてくる。ハーブをちぎって鼻に近づけるとクンクン言って喜んだ。お邪魔した家の最も小さな存在が歓迎してくれると、一層、その家族に受け入れられたような親しみが湧いて来て嬉しくなるものだ。

  確かに、フレンチトーストもグレープフルーツジュースも最高に美味しかった。クリスティーヌは、ハーブティーをトレーに載せて持ってくると、こう切り出した。

「そうそう、ミミ。昨日母が言っていたのだけれど、扉職人のことね。今日、その人、扉をある御宅に搬入することになっているの。午前中なら、工房にいるはずだから、一緒に行きましょうか?ご紹介するわ。」
「まあ、そうなの?ぜひお願いしたいわ。アデレーヌの御宅の『お祈りの館』の白い扉を見たの。どんな方なのか知りたいわ。」
「じゃあ、この後、行きましょう。」
「その工房って近いの?」
「近いの、何のって、目と鼻の先よ。斜め右向かいの建物よ。」
「え、迫り出した岩場の上に立っている建物がその方の工房なの?」
「そうよ?どうかして?」
「ううん・・・そうだったの・・・ちょっと気になっていたから・・・わかったわ!クリスティーヌ、じゃあ、一旦部屋に戻って仕度してから、降りてくるわ」

四階の部屋に戻ると、窓からその建物を見下ろした。テラスには誰もいなくて、壁にギターが立てかけられていた。
あの人だったのだわ・・・その扉職人って。

扉職人との出会い

  クリスティーヌは私を連れて、扉職人の工房のある建物に向かった。道から少し階段を降りたところに入り口があり、そこは実は建物の三階で、思っていたよりも高い7階建ての建物であることがわかった。外壁は石作りで古風だが、一歩中に入ってみると現代的な空間になっている。天井まで完全吹き抜けで、海側は全面ガラス張りの壁。巨大な空と海の絵画のようだ。ガラスの壁はまるで全身全霊で光を空から吸い込むかのように、眩しいほどの白い空間を生んでいた。— 静かで、エネルギッシュだ。他の三面の壁には、天井から床に至るまで、無数の扉が展示されていた。扉の形は、長方形、楕円、真円、正方形などで、色はアースカラー、パステルカラー、原色など様々。各階ごとに内側に廊下が迫り出している。天井は、古い教会のようにドーム状になっていて、小さな丸い色とりどりのガラスが点々と嵌め込まれていた。そこから、虹を想わせる光がうっすら降りていくる。

  Rubanの町は、古くどこか懐かしみを感じるイメージを持っていただけに、室内の様子は思いがけないものだった。
「まるでコンテンポラリーアートの美術館のようだわ」
「彼は建築家なの。この建物はこの町でも古い方で、海辺に立って随分波に削られていて、誰も寄り付かなかったの。でも、彼は何かをこの建物に感じたらしく、修復して見事に工房として再建したの。この半島に注がれる光をこの建物いっぱいに入れたいと言って・・・その光の中で扉を作りたいと言ってこの内装をデザインしたというの。でき上がるまでは、この町の人たちは誰もどんな風になるのか知らなかったのだけれどね。時々、随分大きな船がそこの岩場まで来てガラスや建材を運んでいたの。それで、珍しく、町の人たちが群がっていたものよ、あの道端に立って。」

  ギターを弾く扉職人の後ろ姿が、再び思い出された。何を思ってこの建物を再建したのだろうか。それにどうして建築家だった人が、この土地に来て、扉を作っているのだろうか・・・。

  クリスティーヌが、入り口の壁に掛けてある小ぶりな鐘を鳴らすと、まるでカテドラル教会に鳴り響く鐘のように響き渡った。見上げていたら、扉職人が最上階の廊下に姿を現したが、天井からの光線で逆光になってシルエットしか見えなかった。クリスティーヌは、大声を出すと響きすぎるのを知っていたのか、静かな声で扉職人に声をかけた。
「おはようございます!お忙しいかしら」
「おはよう、クリスティーヌ。少し待っていてください。降りますから」
丁寧な口調だった。扉職人はすぐに降りてきた。
「サイモン、お仕事は順調ですか。ご紹介したい人がいて、連れて来たの。こちらミミです。」
「はじめまして。サイモンです。」
顔立ちはギリシャ彫刻のように彫りが深く、鼻筋がまっすぐ伸びていて、奥まった瞳は群青色だった。穏やかで礼儀正しく、哲学者のような面影があり、どこか静かな印象だった。長身で体格はがっちりとしていて、Tシャツの袖から逞しい小麦色の腕が伸びていた。
  クリスティーヌは
「ミミは、日本から旅して来たの。暫くうちに泊まられるの。母があなたに紹介してほしいと・・・」
「アデレーヌが僕に?そうでしたか」
サイモンは、ふと何かを思ったのか、視線を逸らして何度か頷いた後、再び私を見て目を細めた。瞼が少し開いたその時、光が瞳に差し込み、青色と水色と緑がかった水色に輝いた。それは、まるで湖水の水面に揺れる光のようであり、また底深く透き通る神秘的な湖水をも想わせた。瞳は人の心を映し出す。深さと清らかさが感じられるサイモンの瞳は、アデレーヌの瞳とどこか似ていた。
クリスティーヌは言った。
「ミミ、昨日、母のところに行って、サイモンが作った扉を見たのでしょう?」
サイモンが、そうなのですか、と言った表情を浮かべた。
「ええ、アデレーヌの家に、たまたま立ち寄ったのですが、その時、あなたの作られたという『祈りの館』の扉を拝見しました。その時、なんと言えばいいのか・・・祈りに包まれるような感じがして・・・つまり『扉そのものが祈り』のような気がする・・・そう思えたのです。」

  サイモンは、え?という表情をした後、視線を下げた。そして、安らかな表情を浮かべて、
「そうでしたか・・・そのように感じられたのですか」
そう言った。
「はい、そしてアデレーヌが、あなたとぜひ、お友達になるといいわと言ってくれたのです。」
「そうでしたか、アデレーヌがそのようなことをおっしゃったのですか。お会いできて嬉しく思います。」
サイモンは手を伸ばして来た。そして、握手した。その手は厚く大きく、そして意外にも柔らかかった。

「それで、こちらの町には、どうして来られたのですか?いや、あまり観光で来るような場所ではないから。」
「それが・・・ある一枚のしおりに、古い写真が貼り付けてあったのですが、どうにもこうにも気になって、それで調べたら、写真に写っている風景が、この町に違いないだろうとわかって、それで訪ねたいと思ったのです。」
「へえ・・・そんな風にして、ここに来たのですか。なんだか不思議な魅力的な旅ですね。つまり、ここに、導かれてきた・・・。まあ、僕もこの町に辿り着いた者なのですけれど。」

クリスティーヌは、仕事を残して来たから先に戻ると言って、帰っていった。

「それにしても、この空間、素晴らしいですね。」
「ありがとう。」
「あっ、あれは?その扉・・・」
ふと、ある扉が目に入った。それは、サイモンの立っている場所の少し奥にあった。木の扉に、石の欠片のようなものが埋め込まれてあった。そして、ホテルのルームナンバーのように数字がつけられていた。すぐに目にとまらないほど小さい数字だったが、なぜかその数字が大きく見えて、目に飛び込んできた。1109 1989とある。
「1109 1989・・・この数字は?」
と言った後、なぜかピンと来た。
「もしかしてこの数字、9/11/1989のことですか」
サイモンは答えた。
「そうです。」
「ということは、このゴツゴツとした石は・・・ベルリンの壁の残骸ですか?」
想像は的中した。サイモンは、黙って私を見つめていた。
「まさにその通りです。よくわかりましたね。それを拾い集めてこの扉にしたのです。この扉が僕が初めて作った扉です。」
「サイモン、あなたは東欧で社会主義国の民主化運動が進んで、ベルリンの壁が崩壊したそのとき、そこにいたのですか。」
「僕はあの日、あの場所にいました。そして、この残骸を拾い集めた・・・。」
  そう言って、サイモンの右手は扉に刻まれた残骸に触れた。そのサイモンの横顔を見た時、耳の奥で、また、朝聞いたギターの旋律が流れ始めた。どんな気持ちでこの扉を作ったのだろう。そして、なぜこの地に来て、扉を作っているのか。

「しばらく滞在されるのですよね。その探している場所が見つかるといいですね。」
サイモンは言った。
「ありがとうございます。今日は、これから、地図を頼りに、この辺りを散策したいと思っています。」
「そうですか、いい時間になりますように。僕は、仕事に戻ります。今日搬入する扉の仕上げをしなければならないので。よく訪ねてきてくださいました。またお会いしましょう。」
「ありがとうございました。お会いできて嬉しかったです。」
そう言って、建物から出ようとした時だった。サイモンが背中から声を掛けて来た。
「あの・・・ミミ。僕、昼過ぎからですが、ある場所に扉を搬入しに行くのです。もし良ければ、ご一緒しませんか。馬車で移動します。途中、この半島の美しい景色も見られます。そして、その地図を頼りにそこによってもいいですよ。実は、加勢してもらうはずだった人が漁に出なくてはならなくなったので、ちょうど席も空いている。それに、もし少し手伝ってもらえるなら尚のこと嬉しいです。」
「馬車で移動なのですか?ありがとうございます。それは嬉しいです。私の手で足りるかどうか、わかりませんが、扉の搬入も、お手伝いさせてください。」

  宿の部屋に戻り扉を開けた時、ちょうど窓の向こうを、二羽の白い鳩が横切って行った。
「あ、白い鳩・・・!」
 急いで窓際に立ち外を眺めると、羽ばたく白い鳩は、サイモンのいる建物の屋上にとまった。一瞬きらりと光ったのを感じて視線を落とすと、窓際のチェストの上に置かれたクリスタルの十字架に陽が差し込んで、虹が生まれていた。その七色の光は、十字架の隣に置かれたクリスタルが散りばめられた青い蝶の置物に伸びていた。

「サイン・・・サイン・・・」胸に刻むように、そう呟いた。

 まもなくすると、新しい扉を荷台に積んだ馬車が、あの石畳の道に現れる。
—清々しい潮風が頰を撫で、髪を靡かせて通り過ぎていくと、振り返って、スケッチブックと鉛筆とカメラを小さなリュックに詰め直し始めた。