第四話 扉"

水色の小鳥

  ゆりゆら・・・ゆらゆりゆりら・・・ゆらゆり・・・
青いリボンを残したまま、どこかへ飛んでいった青い蝶。そのリボンを左手首に蝶々結びをして括りつけ、揺らしながら、岬を背にして歩き出した。

  防風林を抜けると、辺りはマロニエの木立に囲まれていた。土肌を見せながら草の生える小径は、木々を縫うように緩やかに下り始め、ところどころに木漏れ陽が淡い光と陰を降ろしていた。時折、ふいに妖精のように通り過ぎるそよ風は葉を揺らし、小さな光が葉と葉の隙間にキラリキラリと浮かんでいった。木立の中に姿を隠す小鳥たちは、その瞬く光に呼応するかのように囀っていた。鳴き声に耳を澄ませていると、空を突くように、高く、涼やかに歌う小鳥の声がした。立ち止まって、その小鳥がどこにいるのだろうかと木立の中を探してみる。暫くして、鳴き声が近づいて来たので、そっと背を屈めて覗き込むと、葉と葉の間に、首を傾げながら小枝にとまっている水色の小鳥が見えた。

  私はゆっくりと近づいて行き、驚かせないように青いリボンを結んだ左手を伸ばした。じっとして見つめていると、水色の小鳥は首を傾げながら、こちらの方に向かって、ちょん、ちょん、ちょん、と小枝を移動してきた。そして小さく弾んで飛び上がり、差し出した掌に降りてきてくれた。水色の小鳥は、吹けば靡くような柔らかなふわりとした水色の羽毛にこんもりと包まれ、額に扇型の白い羽毛が小さく立っている。瞳の下には、クリーム色の円形の羽毛があり、そこにピンクの斑点が浮かんでいた。まるで小鳥は、マロニエの森に住む、ティアラを頭に載せて水色のドレスを纏った小さな王女様のようだった。

  思いがけないこの出来事に嬉しくなって、小声で「ありがとう!あなた、私に心を許してくれたのね。」と言葉を掛けた。水色の小鳥は、軽く弾みながら掌の上を歩いて、左手首の青いリボンのところまで来ると、嘴を近づけ、蝶々結びの結び目を啄んで、少しずつ引っ張り始めた。そして、とうとうリボンを解いてしまった。「まあ!あなたってすごいわ!」その嘴の技に驚きつつ、いたずらっ子のような小鳥の様子が微笑ましくて、いつまでも見つめていたいような気がしていた。が、まもなくして、掌に青いリボンを残したまま、水色の小鳥は木立の中に消えていった。

  それから、暫くの間、顔に触れそうな細い枝々を両手で掻き分けながら、木立の香りと青草の香りが漂う小径を下っていった。歩きながら、「思索の丘」で思い巡らしたことが、体の中に鐘の音の残響のように残っているのを感じていた。ただ、澄んだ綺麗な空気と木漏れ陽と小鳥の囀りと、少しばかり土の匂いの混じり合うマロニエの木立の中を過ぎていくうちに、その残響は管弦楽の奏でる滑らかで優しいハーモニーに化していき、長旅でやや感じ始めていた疲れが、心地よい爽やかな気持ちへと変えられていくのだった。そして、いつのまにか、鼻歌を歌いながら指で摘んだ青いリボンを靡かせ、時折、こっそり踊り子のように回転しながら、緩やかに下る小径を自由気ままに進んでいった。

  マロニエの木立が途切れる頃、靴の下の大地の硬さが和らぎ、ややふっくらとしてきているように思われた。そして、道は十字路に分かれた。

  太陽を見上げると、鞄を見下ろし、鞄の口を開けて、この土地を探し当ててくれた友人の描いた宿を示した地図を開いてみた。この右に伸びる道が、きっと、少年たちの暮らす坂の町に繋がっているに違いない。遠道になるが、こちらから登ってくるのが本道だったのだろう。まだまだ陽も高いのだし、時間に縛られているわけでもないのだから、このまま真っ直ぐ歩いて辺りを散策することにしよう。そう決めると、地図を折って鞄にしまい、青いリボンをくるくると指に巻きつけて抜き、鞄の内ポケットに入れて、また歩き始めた。

薔薇の門

  一面の青い空の下、小径は徐々に道幅を広げていった。辺りの白い石畳と石塀の佇まいは、少年たちと出会ったあのごつごつとした男っぽい石と岩の町といった印象とは異なり、女性的な柔らかな雰囲気が漂っていた。大きく曲線を描いた塀に沿って歩いていると、前方から花の甘い香りがしてきた。そして、そのまま少しばかり歩いたところで石塀は途切れ、そこに聳える薔薇のアーチが目に入った。この町は、乾いた石の町という印象だっただけに、ここに来て初めて見た薔薇に心が踊った。夏の時期に咲くということは、半島の中で最も高台となるこの辺りを、涼しい風が通り抜けていくのかもしれない。あるいは、この時期に咲く薔薇なのだろうか。

  アーチの骨組みがほとんど見えないくらい豊かに咲き乱れ、優雅に絡みついた蔦は、花と花の隙間からややブルーグレーを含んだ深緑の葉を見せていた。薔薇は一つひとつこんもりとして、スモーキーピンク、パリスピンク、ローズピンクなど、微妙に色味の違うピンク色の花びらと白色の花びらが幾重にも折り重なって、アーチ全体を柔らかく包んでいた。

  近づいて見上げると、アーチは水色の空を背景に、天に抜ける門のように見えた。そして、ちょうど雲間から光が降りてきた時だった。水色の小鳥が羽ばたいてきて、薔薇の門をすっとくぐり抜けて行った。「まあ、さっきの水色の小鳥ではないかしら!」そしてその直後に、小鳥の羽ばたきがそうさせたのか、ふいに風が吹いたのか、眩しい光の中、薔薇の花びらがフラワーシャワーのように、はらはらと降り注いできたのだった。まるで、天の祝福を受けた選ばれし小鳥を目の当たりにしたようで、なんだか幸せな気持ちが湧いてきた。

  降ってくる花びらを仰いでいると、花びらが一枚、小舟のように上向いたまま、掌に舞い降りた。それは椀のようにも見えてきて、ここに清水を注いだとしたら、薔薇の香りのする水になるのかしら・・・と想像した。そして、あのティアラを載せた水色の小さな王女様が掌に戻ってきて、薔薇の水を啄むとしたら、それはなんと美しい光景だろうか・・・と、少しばかり夢心地になった。

  それから、石畳に落ちた花びらを数枚摘み上げると、リュックの中から、古本屋で見つけた青い表紙の本を取り出し、間に挟んで押し花にした。そして、薔薇のアーチとの旅の出会いを記録しようと、そこでスケッチし始めた。

  アーチ越しに、よく手入れされた芝生の絨毯が見える。しかし、部分的に、摘み取られないまま、野草が伸びている様子も窺えた。それらもまた、生き生きと伸びやかに育っている印象だった。ここの家主は、庭に手を掛けながらも、なるべく野草を自然のままに残したい、野花も咲かせたい・・・そんな感性の持ち主なのだろうか。描いていくうちに、どんな人が住んでいるのか知りたいような気がしていた。そして、スケッチに色を添え、サインを入れ終わった時だった。まるでそれを見計らったかのように、どこからか声がしてきたのだ。

「Coucou!」(クックー!)
そして、また声がした。その声はさらに大きくなった。
「Coucou!」

  女の子の声だ。高いところから聞こえてくる。誰かを呼んでいるようだ。思わず、手を止めて振り返って見上げると、白い塀越しにこちらを見ている子がいた。その子は大木の幹から伸びる枝に腰掛けている。私が彼女に気づいたとわかると、その子は枝の上に立ち上がって太い幹に両手を回し、また

「Coucou!Coucou!」

と言って、今度は、片方の手を幹から外すと、その手を大きく振って、呼びかけて来た。
「ね!一緒にあそぼー!こっち、こっち、こっちに来て!中に入って来て!」
私は、その子が木から落ちやしないかと心配にもなって、薔薇のアーチから顔を覗かせて、庭の左手に立つ大木を見上げた。
「あら、大丈夫?落ちないでよ。」
「大丈夫、大丈夫!早く早く、こっちに来て!」
「本当にいいの?うわあ、本当に素敵なお庭とお家ね!お邪魔してもいいかしら?お母さんは?」
そう言うと、
「お母さんはいないけれど、おばあちゃまは、いるわ!もうすぐ出てくるわ!私はマノンよ。あなたは?」「あゝ私?・・・私は・・・そう、ミミと呼んで!」
「絵描きのミミさんね!はあい!」
一瞬にして打ち解け合うことは、大人にも子どもにもある。
「ここから、海もお家も森も林も見えるのよ!今、とってもきれいよ!早く登って来て!」
という言葉につられて、大木の幹に掛けられている梯子に手と脚を掛け、登り始めた。幹の右手に伸びた太い枝からはブランコが吊るされていて、女の子は左手に伸びた枝に座っている。登りながら枝に林檎が実っているのに気づいた。この大木は林檎の木だったのだ。さっきまでいた「思索の丘」の林檎のことが頭の中をよぎった。

  登ると、恐る恐る体を左に回転させて、太い枝に腰かけた。目の前には、確かに壮大な風景が広がっていた。この女の子は、毎日この美しい風景を眺めているのだろうか。少年たちと出会った坂の町も見えた。坂道に連なった石塀が、細くくねくねと伸びている。その向こうに青い海が見えた。左斜め奥には、深い緑のこんもりと盛り上がった森があり、大地を縫うように伸びた、とんがり帽の樹々の林が、交差しながら連なっていた。なんて素敵な気分だろう!私たちは、すっかり打ち解け合って女の子が嬉しそうに笑うと、童心に返って私もククッと笑った。

「ねえ、ミミ!こっちの枝を見て!私のお友達の小鳥さんのお家なのよ。ほっぺに、クリームとピンクのお化粧をしているの」と、マノンは言った。
「え?その小鳥、まさか水色ではないわよね?」
「そうだけど、なんで?」
「いや・・・それがここに来る前に、この先のマロニエの木立の中にいたのよ。とってもきれいな声で鳴いていて、そして、この手にとまってくれたわ!それに、さっき・・・」
と言うと、マノンは目を丸くして、私の話を遮るように
「え!ミミにとまったの!?あの子はとってもきれいな小鳥だったでしょ?!歌声もすごくきれいなの。わたしの大好きな小鳥さんよ。ここに時々飛んできて、この小鳥のお家に入るのだけれど、誰にもとまらないわ。というか、人がいたら、近づかないの。このお家にも。だから、そうっとそっと、ほら、あそこの木の陰から様子を見るのよ。おじいちゃまの大きな双眼鏡を借りて見ることがあるわ。でも・・・すぐどこかにお散歩に行っちゃうの。ね、ミミ、ミミにとまったの?ミミのこの手にとまったの?すごい!」

  あの水色の小鳥との出会いも、この子との出会いを暗示していたのかしら・・・それとも、運んでくれたのかしら・・・。そんなことをゆっくり考える間も無く、女の子は、違う方向を指さすと、
「あの枝についているバスケットはね、私のご本のベッドなの。中にはお布団も敷いてあるのよ。おばあちゃまが作ってくれたの。私の小さい時のお洋服を解いて縫ってくれたのよ。大好きなご本をそこに入れて、ここで時々読むのよ。でも、いくつもいっぺんに持って上がるのは大変なの。この前、せっかく持っていったのに、バスケットに入れる前に、落ちちゃった。ふふふ、今一番好きなご本はね、これ!」

  そう言って、女の子は、バスケットの方へ手を伸ばして本を取ると、差し出して見せてくれた。それは日本語名「ちいさいおうち」バージニア・リー・バートン作だった。
「まあ、その絵本はね、私も大好きだったのよ。」
「え!そうなの?ミミとマノンは、とってもいいお友達ね!ねえ、今度はブランコしてあそぼっ!」
そういうと、私を太い枝に残したまま、するすると梯子を下りて行き、小さな膝を折ったり伸ばしたりしながら、ブランコを漕ぎ始めた。そして林檎の木の側にある、子どもがやっと入る位の小屋を、顎で指し示しながら、
「このお家はね、おじいちゃまが、作ってくれたのよ。マノンは、ここで時々お昼寝するの!眠くなくっても、寝たふりして遊ぶのよ。子守唄も歌うんだあ。
 ね〜むれ〜  ね〜むれ〜 かわいい、いい子は おねむりし〜ましょ〜 ♫
 ね〜むれ〜  ね〜むれ〜 やさしい、いい子は おねむりし〜ま〜しょ〜 ♫
あゝあ・・・おじいちゃまは、もういないの。お星様になっちゃったんだあ。」
と言って、少し寂しそうにうつ向いて、口をとんがらかせた。

老婦人アデレーヌ

  その時、庭の奥にある家の格子窓の白いレースのカーテンがひらりと開いて、家の中に人影が見えた。カーテンを押さえて、中からこちらを窺っているようだ。その家は、屋根は緑の葉に豊かに覆われ、白い壁に囲まれていた。家の左端の方は、レンガの厚みよりやや薄い、丸みを帯びた横長の白っぽい石が積み上げられて固められた素朴な壁になっていて、家の中央のやや左寄りに、淡いグレーの木の扉があった。

  その扉が開くと、ティーカップを乗せたトレーを持った、白髪の髪を後ろに束ねた背の高い老婦人が現れた。扉の前にはデッキのようなテラスがあり、その上を覆った屋根の影になって、表情まではよく見えなかったが、老婦人は襟のやや高い白いブラウスに、シルクを想わせる淡いグレーのロングのスカートを身につけ、その上に白い綿レース生地の丈の長いエプロンをしていた。そして、テラスについた階段を数段降りて、陽の当たる庭に出てきた。

  老婦人は、ブランコに乗るマノンを見た後、そのまま視線を上げて、林檎の木の太い枝に座る私を目撃し、思わず微笑んだ。老婦人はゆったりとしたどこか優雅な身のこなしで、持っていたトレーを庭のテーブルに置くと、林檎の木の方に近づいてきた。

「マノンちゃん、お客様だったのね!」
「そうなのよ、私のお友達のミミよ!ねえねえ、聞いて、聞いて!ミミったらね、あの水色の小鳥のチャーッピーに、マロニエの木のところで会ったんですって!それもね、すごいの!お手てにとまったんですって!本当の話よ!本当のお話なのよ!」
「あら、そうなの!それは素晴らしいわ!」
そう言って、老婦人は大木の枝に座る私を見上げ、
「きれいな小鳥だったでしょう?」
と話しかけてきた。そして、今度は大きな声で、
「ようこそ!ミミさんね!そこは眺めがいいでしょうけれど、ふふふ、よろしければ、あちらのテーブルでお茶でもご一緒にいかが?ちょうどアップルパイも焼き上がる頃よ。」
「まあ、ありがとうございます」
と丁寧に言葉を返したが、太い枝に座って足をぶらぶらさせている自分が、やや滑稽に思えた。そして、そそくさと降りていき、梯子から脚を外すと、老婦人の方に右手を差して、改めてご挨拶した。
「はじめまして。こんにちは。ミミと呼んでください。」
老婦人も右手を差し出し、握手をしながら
「ありがとう。こんにちは、はじめまして。私はアデレーヌよ」
「あゝアデレーヌさん。こちらは、とても素敵なお庭ですね。それに、あの薔薇のアーチも本当に素敵!私、薔薇が好きですし、嬉しくなりました。」
「ありがとう!」
「私は、日本から来ました。」
「日本ね、まあ、遠いところから・・・美しい国と聞いています。」

  アデレーヌと私は歩き始めた。マノンは後ろから駆けて来て私たちを通り越し、振り返ってにっこり笑うと、今度はスキップしながらテーブルの方へ先に進んでいった。

  歩きながらアデレーヌに、話しかけた。
「この町に来るのは初めてですが、お宅のあの薔薇のアーチにとても魅力を感じて、道端でスケッチしていたのです。そうしたら、マノンちゃんに声を掛けられて。あまりに楽しそうだったもので、つい童心に帰ってしまって、断りもなくお邪魔してしまい、失礼しました。」
「いえいえ、いいのよ。どうぞ、ゆっくりなさって。あの水色の小鳥が歓迎しているのですもの。ふふふ、
ここは、門はありますけれど、香り豊かな薔薇の門でしょ、小鳥もうさぎも人間も・・・どなたに来て頂いてもいいのよ。本当は、うさぎだって、お茶を召し上がっていってほしいくらいだわ!おほほ。あの林檎の木からの眺めはよかったでしょう?」
テーブルのところまで来ると、アデレーヌは椅子を引きながら、
「さあ、どうぞ、こちらにお座りくださいね、ゆっくりしていらしてね。」
と促した。柔らかな物腰のアデレーヌに魅力を感じた。

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、ご一緒させていただきます。それに実は・・・私、アップルパイが、大の大の大好物なのです!」
「あゝははは、あら、それは、良かったわ。うちのアップルパイは大きくてとびきりに美味しいと言われるの!代々直伝のアップルパイなのですよ!」
そう言うと、老婦人のアデレーヌの手が、トレーの上のガラス製のティーカップに伸びた。私は思わず、その手に見入ってしまった。お年を召している方の手とは思えないくらい、白くふくよかで、清らかな印象だったからだ。彼女は、ティーカップとケーキ皿を私の前にセッティングしていった。

  アデレーヌは、思い出したように、手を止めて私の顔を見ると、
「日本から・・・とおっしゃったわよね?」
と言った。私ははっとして、彼女を見上げると
「ええ、日本からです。」
と答えた。
「あゝやはり!そういえば、何ヶ月か前に、娘から聞いていたわ!日本女性がこの町に来るって。
あゝあなたのことだったのね!」
「え?!」
「それが、私の娘が・・・そう、この子の母親なのですけれどね、この下にある町で、ワインやチーズや色々と売っているお店を開いているのですが・・・宿屋もやっているのです。まあ、ほとんど、ここに観光に来る人はいないのですけれどね、たまにこの町に訪れる人のために、店の上にある自宅の・・その上にあるお部屋が空いているから、そこを改装して貸せるようにしてあるのです。そこに、今度、日本女性が泊まるって娘が言っていたの。あなたのことだったのね?!」
「あゝ、そうだったのですか。何度かやり取りをさせていただいたのですが、とても親切な方で・・・!」
マノンは、ブランコから降りて近づいてくると、アデレーヌのエプロンを引っ張りながら、
「おばあちゃま!ミミは、私のお家に泊まるの?ね、泊まるっていうことなの?」
「ええ、そうよ、マノンちゃん。でも、正確には、マノンちゃんのお家の上のお部屋に泊まられるのよ」
「本当に?やったー!嬉しい!ねえ、ミミ、いくつお泊まりしてくれるの?ママとお友達なの?ねえ、いくつ?ずっとずっと泊まっていいからね!」
マノンは、そう目を輝かせて聞いて来た。アデレーヌは
「はいはい、マノンちゃん、よかったわね、お泊まりに来てくれて。」
と言った。そして、アデレーヌは私に、
「あなたは、日本人で初めてこの町を訪れた人かもしれないわ。少なくとも、私が生きている間では初めではないかしら。よく来てくださったわ。何もないところだけれど・・・でも美しい町よ。この子を後で、娘のところに送りに行くことになっているから、一緒に行きましょう!」

  アデレーヌは、ここで待って・・・という仕草して家に入って行くと、窓越しに、扉の右手の部屋に移動したのが見えた。そして、まもなくしてアデレーヌの声が聞こえて来た。電話をしているようだ。受話器を持ったアデレーヌは、空いた方の手でレースのカーテンを開くと、電話で話しながらこちらを見て、私と目が合うと微笑んだ。電話で話している相手は、どうやら娘さんのようだった。後で、私を送って行くといった話をしているのだろう。アデレーヌは電話を済ますと、今度は、トレーに焼きたてのアップルパイと、お茶の入ったガラスポットを乗せて出てきた。アデレーヌが席に着くと、ティーカップにお茶を注ぎながら、このお茶は、庭で育てた薔薇やカモミーユ、エルダーフラワーに、林檎やプラムなどのフルーツを入れたハーブフルーツティなのだと説明してくれた。快い香りが、湯気とともに広がっていった。

  アデレーヌは、薔薇の絵が細やかに描かれた白い磁器の取手の銀製のナイフを握ると、アップルパイの中央に刃先を入れて、サクサクといい音を立てながらパイを切っていった。そして切り分けると、ややグレーがかった淡いミントグリーンのお皿に盛り付けて差し出した。パイの間から、盛り沢山に詰め込まれた林檎のスライスが少しはみ出し、そこから黄金色のジャムがとろりとお皿に流れ落ちた。

  私は薔薇模様の柄の長いナイフとフォークを握り、さらに切り分けると、湯気のたつアップルパイをフォークに乗せて、ゆっくりと口の中に入れた。パイの層には、細く刻まれた蜂蜜漬けのレモンの皮が挟まれ、林檎のスライスの中には、ぷっくりとした大粒のレーズンが程よく散らばり、品良くシナモンが効いていた。林檎は1センチ程の厚みにスライスされていて、噛むと甘酸っぱさがじわりと滲み出て口の中に広がり、その後、蜂蜜の甘さが行き渡っていった。

  アデレーヌは、いかが?といった顔をして私を見つめた。私は頷きながら、
「とても美味しいです。感激です!」
と答えると、彼女は満足そうな笑みを浮かべた。マノンは、私が食べるのを待っていた。そして私が気に入った様子を見て、嬉しそうに口をしぼめて笑うと、フォークを手に取り、少しはみ出したりんごのスライスを数枚引っ張り出して突き刺し、口を大きく開けて、さも美味しそうに食べ始めた。

  庭のテーブルや椅子は鉄製で、植物の装飾が施されていた。こうしたロートアイアンは、ヨーロッパでよく目にするが、この町でも、門や窓柵など、至る所で見られた。ただ、この町の装飾は、伸びやかな線が特徴で、優雅さと素朴さが相まって、さらに所々に極めて繊細な装飾が施されていていた。
「このテーブルも椅子も素敵ですね。」
そう言うと、アデレーヌは、マノンのぷっくりとしたピンク色の唇の周りについた林檎のジャムをナフキンで拭き取りながら、語り始めた。

「この辺りは昔から、漁業の町なのですけれどね、アールヌーボーが流行った時代に、この町からフランスのロレーヌ地方にアールヌーボーの工芸を学びに修行に出た青年がいたらしいの。その青年がこの町に仲間と一緒に帰って来て、工房を作って、この土地の花や植物、魚などをモチーフにした、とても繊細で美しい錬鉄工芸を施した家具や日用品を作るようになったのだと聞いているわ。それでその技を学ぶためによそから人がやって来たり、遠方から買い出しに訪れる人がいたりしてね、港も賑わったらしいし、ホテルも何軒かあったというわ。その名残で、町中の建物や石塀にロートアイアンが施されているのよ。だから、骨董品と言われるようなものもありましてね、このテーブルももう随分古いものよ。100年近く経っているのではないかしら。」

  それから、アデレーヌは、ご主人が3年前に亡くなり、今は一人暮らしで、娘は、船乗りで貿易の仕事に携わる夫とお店を開いていること。そして娘と孫のマノンが家によく遊びにくるとか、この町の女性は大らかな人が多いとか、そんな話をしてくれた。二人で語り合っている間に、マノンはアップルパイを二切れ食べ終わり、庭に迷い込んで来た薄茶色の野ウサギを見つけると、席を立って追いかけて遊び始めた。

白い扉

  背の低い垣根の入り口から入って、奥まった庭にあるハーブ園まで行くと、様々な種類のハーブが青々と茂っていた。アデレーヌは、ハーブを摘み取りながら、その効能や使い方、食し方などについて話してくれた。ハーブに触れ、香りがついた指先を顔に近づけて吸い込んでみる。すると、快い香りが鼻の奥から入って体の隅々まで行き渡り、余計な力が抜けて、心まで緩んでいくようだった。アデレーヌは、娘の家の近所に暮らす友人にもハーブを届けようと思い立ち、庭の木棚からバスケットを持ってきて、さらにハーブを摘んでいった。

  私は彼女から少し離れたところで摘んでみようと思い、体の向きを変えて歩いたその時だった。ハーブ園のさらに奥まったところに立つ大きな樹の向こう側に、白い建物が建っているのが目に入った。石壁には、まるで一枚の絵のように美しい白い扉が取り付けられていた。

  「あの扉・・・」そう私が呟くと、アデレーヌは屈めていた腰を伸ばしてこちらを向いた。

  私は手に持っていた小さなバスケットを地面に置いて、扉の方にゆっくりと近づいていった。扉は木製で、薄く塗り重ねられた白い塗料の中からうっすらと木肌が透けていた。白いオーガンジーを纏う貴婦人のようであり、どこか彫刻家舟越桂の80年代頃の木彫の半身像を彷彿とさせ、詩的で幻想的な雰囲気を醸し出していた。扉の淵は、重厚な額縁のような彫刻だった。繊細に彫り込まれた林檎のたわわに実った枝とシュロの葉の文様には、白金色、白銀色、白色が、細い筆で塗り重ねられて彩色され、月の光を想わせる品のある光沢を放っていた。そして扉の上には、まるで一枚の絵から飛び出してきたかのように、白金色と白銀色に彩られた林檎の装飾が掛けられていた。

近づいてきたアデレーヌに、そっと語りかけた。
「芸術作品のようですね。なんて美しい扉なのでしょう。」
「この扉は、扉職人に特別に作ってもらったものなのよ。この建物は、祈りの館なのです。」
「祈りの館・・・」
「そうです。朝、昼、晩と、ここで静かな祈りの時を持っているのですよ。」
私は静かに頷いた。
「本当に美しいです。何か吸い込まれるような・・・」
彼女は思い出したように言った。
「そういえば、この扉を作った扉職人とお会いになるといいわ。彼もこの土地の人ではないのよ。ここに導かれて辿り着いたような・・・もしかしたら、いいお友達になれるかもしれないわ。また良い時に、ご紹介しましょう。」
 
  二人で庭のテーブルまで戻ると、アデレーヌは、テラスの脇の木棚に置いてあるエンジ色の麻紐を取って来て花ばさみで短く切り、摘み取ったハーブを束ねていった。そして家に入って、娘さんに頼まれたというアップルパイと、バケットとプラムと林檎のジャムをバスケットに入れて戻ってきた。それから、庭のテーブルにあった残りのアップルパイを箱に詰めながら、
「ミミ、このアップルパイと、こちらのジャムも持っていらしてね、明日の朝にでもハーブティーと一緒に召し上がるといいわ。」
と言って、束ねたハーブと一緒にバスケットに入れてくれた。

  ブランコに乗っていたマノンは、庭をぶらぶらと歩いた後、走って戻ってきた。そして、勢いよく私に飛びつくと、
「はい、ミミ!これあげる!」
と言って、後ろに回していた手を差し出した。マーガレットの花束だった。さっき庭を歩いていたのは、この花を摘んでいたのだろう。
「まあ、ありがとう!」
アデレーヌはその様子を、目を細めながら見ていた。そして
「さあ、お待たせしました、マノンちゃん。お家に帰りましょうね。」
と言った。マノンはアデレーヌと私の間に入り、両手をそれぞれの手に伸ばしてきた。
アデレーヌと私は目配せをして微笑んだ。

  そして三人は、咲き乱れる薔薇の門をくぐり抜け、マノンの母親の家へと向かった。