森 由里子(もり・ゆりこ)
作詞家。TVアニメ『ドラゴンボール』主題歌「魔訶不思議アドベンチャー!」で本格的な作詞家となり、中森明菜「TATTOO」がオリコン1位、メガロポリス歌謡祭ポップス大賞、日本レコード大賞金賞など受賞。
第2回 「懐疑力」(疑う力)
人を信じる、何かを信じる。そのこと自体はもちろん悪いことではないが、私は最近よく信じ切ることの弊害を感じることが増えた。その結果、私たちは今「懐疑力」つまり疑う力を養う必要があるのではないかと思うようになった。
そこで、まず最近特に疑問を持っている情報を信じること、疑うことについて考えてみる。
昨年春あたりからコロナパンデミックが起こり、未知(当時)のウィルスの感染症に対する様々な情報がネット等に溢れた。その結果、それぞれ異なる情報を信じる人たちが現れて、世の中は分断されていると感じたのは私だけではないと思う。
情報は垂れ流され誰もが投稿できてお金も生むYouTubeなどの動画サイトにも多くの情報が溢れた。そして一度一つ動画を見ると、それと同じ傾向の動画が次々に現れて視聴者をある結論へと誘う。さらにネットやSNSにも様々な意見や情報が次々に流される。
コロナに関しては専門家にも様々な意見の人がいて、奇想天外なことを断言する人もいた。私自身は未知のことを断言する人はあまり信じないのだが、実は、人は断言する人に弱い。また権威や肩書きにも弱い。それによって何かを信じた人と、別のことを信じている人との対立を生んだが、それはコロナに限らず、昨年の米大統領選においても顕著だった。
そして何かを声高に主張している人や、それを信じ切っている人は導き出された自分の答えこそが絶対に正しいと思っているため、それを否定されたり違うと指摘されると、見えないこぶしをあげて怒っているように見えた。
私自身には、こんな体験があった。昨年、私は自分のブログにコロナ禍について書いたことがあった。内容は、知り合いでコロナにかかった人の話などで大した内容ではなかったのだが、ある知人がそれについて誤解をしたようなのだ。
そのブログを書くより以前、私とその知人とはコロナ禍についてやりとりしたことがあり、その時、捉え方が違うことがわかった。だが私の周囲にはその知人と似た考え方をしている人が多くいたので、私自身はブログにその知人のことを意識して書いた覚えなどまるっきりなかった。ある程度の時間も経っていたこともあって、忘れていたというのが嘘偽りのない気持ちだったのだが、知人は「自分のことを否定された」と思ってしまったようだった。
繰り返すようだが私の周囲にはその知人とほぼ同じ情報、コロナはただの風邪論を信じている人がいたので、私がその人のことだけ思い浮かべることなどあり得なかった。
しかしその誤解が原因で、私とその知人との縁は切れた。私自身は寂しい気持になったが、反省もした。それは、それほど親しくない知人に私が心配したからと言って余計なことをわざわざ伝える必要などなかったと言うことだった。
ただ私は、特段特別な主張があったわけではなかった。そもそも私は疑り深いので、様々な説がある場合、そのどれが正しいのかは「わからない」と常に考えているからだ。なので何らかの情報を見てピンと来ても、それは可能性の一つでしかないと慎重に考えるようにしている。
ただ当時は、私の周囲に罹患して重症になった人が複数いてその体験談を聞いたことから、私には、コロナがただの風邪とは思えなかった。だが、それとて絶対的な確信を持っているわけではない。と言うのも私はさっきも書いたように疑り深く、結論を急がない癖がついているからである。むしろ専門外のことには、わからないと考える冷静さが必要ではないかと思っている。
もちろん自分が体験したことや自分の近しい人が体験したならば、目の当たりにしているため信じるも信じないもないが、それ以外のことには出来るだけバイアスがかからないで物事を見るようことが必要だと思う。
ただ、自分自身で何かを決定しなくてはならない時には、第六感的なものを働かせているところはある。それは理屈ではなく日常における偶然とは思えない出来事からの、ある意味、見えない世界からのメッセージだと感じたものだ。
例えば最近のことで言えば、私が眠りにつく直前、亡き母が夢枕に現れて、私が迷っていたことについて、ある答えを短く語った。私は母の魂が私に伝えてくれたのだと思い、そのメッセージに従った。とはいえ、この話を他人に話そうとは思わないし力説するようなことでもない。
そして、そんな不思議な体験を多々、している自分ではあるのに、そういう不思議なことを布教(?)している人に関してはむしろ懐疑的だったりする。もちろん信じるに足る証拠があればいいのだが、話だけでは信じられないし実感できないことを信じることはできない。
しかし世の中には言葉で他人を操る人がいて、そう言う人は弁が立つことも多い。詐欺のような人もいるし誇大自己症候群かな?と疑うような人もいる。霊能者やスピリチュアルな人の中にも疑わしい人は結構いるのだが、私は実は不思議な話が好きなので、今まで何度もおかしな人にも会ったことがある。今となっては笑い話になるくらいだが、その類の話が好きにも関わらず、さほど大きな被害に遭っていないのは(胡散臭いと思ってもお金を払わざるを得なかったことはある。汗)、疑う力のおかげかもしれないと思う。
ただ、不思議な情報も、耳に心地いいことを言われると、信じやすくなることがある。例えばあなたにはコノハナサクヤヒメという神さまが付いています、とか前世が誰であったかなどきらきらしたことを言われればそれはそれで嬉しい。私も言われたことがあるが、悪い気はしない。しっくり来たのであればそれを半信半疑でも信じてもいいのかもしれない。しかしそれによってその霊能者や占い師に依存したり、人生を委ねて決めてしまうようなことがあってはならないと思う。ちなみに私は、現在では自分が体験しない限り、何を言われても信じないことにしている。
ただ、これを読んでいる方が、霊能者や占い師からの情報に思い当たることが多々あり、信頼に足ると感じたらまた何かに迷った時には見てもらっても別にいいと思う。中には本物も少ないながらいると思うからだ。ただ、私の考える霊能者やサイキックカウンセラーや占い師と言う存在は、弱っている時に元気づけてもらったり、前向きになるために相談する人。背中を押してくれる人である。それだけでいいと思う。
また、そう言う仕事の中には高邁な精神論を説く人も多い。それを読んだり聞いたりすると、私もなるほどと感じ入る時があるが、そんな話のあとでその人のサイトを開いてみると、目の玉が飛び出るような高額のグッズが売られていたり、驚くような高額の講演会を開催していたりする。すると私は途端にそのカウンセラーを信じられなくなる。本当に精神性の高い人はそんなに高額のお金をとらないと思うからである。
もう一つ、言葉で人を操る例で最もわかりやすい別の例は、買い物や勧誘だ。これまで買い物に行って勧誘された際に店員にいかにその商品がいいのかを縷々と説明され、それを欲しくなった経験は多くの人にあるのではないだろうか。
買い物は楽しいし、衝動買いもたまにはいいが、不要なものであれば後悔に繋がるしカードローンなどで自分の首を絞めるようにもなりうる。だからこそ、「疑う力」を持とうと決めることが必要だだと思う。
例えば以前、こんなことがあった。ある便利そうな電気器具を勧められた時のこと。最初「高いので今日はやめておきます」と言うと、相手は「いやいや、これだけの便利なものをローンにすれば月にたったの💮〇〇〇円ですよ?安いでしょう?」等と言う。そうかもしれないが、結局全て私の懐から出るのだからローンだろうと一括だろうと最終的には同じではないか。なのでそう伝えた。にも関わらず、相手は食い下がる、今契約していただければ、これだけお安くします、と安い金額を見せてきたため、「私は高額のものを買う時は即決しないで一度帰宅してから考えることにしています」と答えた。それでも「今決めなければ次回では定価になりますよ」と言われた時には、余計に脅かされたような気がして絶対に買うものかと思ったものだ(だが、テーブルの向こうでは、話術に乗ったのかローンの契約している人たちがたくさんいた)。
むろん商売とは大変なものである。せっかく開発した製品も売れなければ会社としては大変なので必死なのかもしれない。だが、もしお客さんを引き付けたいならお客さまの方からから来てくれるような努力をしなくてはならないと思う。そんなに便利で良い商品であれば、口コミやネットで広がってもいつしか多くの人が買ってくれるのではないだろうか。
いや、それは私たちのような自由業でも同じかもしれない。(私もオファーをいただけるようにがんばらなくては、なのである。汗)。
さて、懐疑力は、恋愛においても同様である。例えば好きになった人、付き合っている男性を初めから疑う必要はないかもしれないが、その人と一生を共にするのであれば人間性を見極めるのは肝要なことである。中にはあなたを騙そうとしている人もいるかもしれないのだから。
では、人を見極めるためにどうしたらいいのだろうか。それは相手が語る言葉ではなく、その人の行動を観察することだと思う。言葉で嘘は簡単につけるが、日々の行動をじっくり見ているとわかるものである。特にあなた以外の人への行動や態度、決断などを見極めることだ。
あなたに対しては甘い言葉を囁いていたとしても、トクをする相手にだけ気を遣う人、感謝をしない人、弱者には尊大な人、嘘つきな人、利己的な人。そんな人は、恋愛感情が落ち着いた時、あなたにもどんな行動をとるか分かったものではない。
そして人間性を見極めるためには、若い時には他人の意見を聞く耳も必要だろう。恋愛感情とは主観そのものなので、客観的になれないからだ。客観性を養うためにも「疑う力」は必要なのである。
世の中が混沌として、様々な情報がネットで飛び交い、人間も他人を騙す人や胡散臭い人が多い昨今、何かを鵜呑みにするのは危険である。
他人や他人の話を疑うのは残念なことだ。
しかし、人間とは似たような部分が多い人と親しくなり、そうでない人とは離れる。自分と似たような人がしぜんに集まってくるのだと思う。
私たちが出来るだけ誠実に、自分の足でしっかり生きていれば、間違った情報で惑わされたり、怪しい人から狙われることもなく、気の合う人たちが周囲に集まってくると思う。
今後、若い人たちが情報を吟味する時、何かで迷った時、誰かを好きになった時、心の中に、愛する力と信じる力や同時に「疑う力」も養っていただければ幸いである。