森 由里子(もり・ゆりこ)
作詞家。TVアニメ『ドラゴンボール』主題歌「魔訶不思議アドベンチャー!」で本格的な作詞家となり、中森明菜「TATTOO」がオリコン1位、メガロポリス歌謡祭ポップス大賞、日本レコード大賞金賞など受賞。
第1回 恋愛は宗教だ!
のっけからこんな書き方もどうかと思うが、恋愛感情とはつくづく面白いものだなぁと思う。喜びも生むが悲しみも生むし、ときには事件にさえなる。
作詞は恋愛にフォーカスすることも多いので、私は仕事中にその時だけの疑似恋愛をしているのかもしれない。
で、恋愛がなぜそんなにも面白いかというと、制御できない感情が一定期間続いていく日々が、まさに非日常的だからである。ドキドキしたりワクワクしたり傷ついて泣いたりする日々。それは恋していなければ起こらないドラマだ。
そして、恋をしていると理性があまり働かなくなる。そんな盲目的な感情はちょっと宗教に似ていて、ときに危ういカルト信者のようにもなりうる。
むろん恋していても理性はあるが、カルト信者のように夢中になりすぎた場合には客観性を失い、周囲が奇異に思おうが相手(教祖)の語る言葉だけを鵜呑みにしたりするケースもある。その結果、不倫であろうと危険な人であろうと気持ちが抑えられず、時には不誠実な相手に騙されてしまうことも起こりうるわけだ。
ちなみにカルト信者と言ってもピンとこない人もいると思うが、カルトの例として昔オウム真理教があり、教団が起こした事件があった。ある年齢以上の人は覚えていると思うのだがそれはテロや殺人事件を起こした凄惨な事件だった。
しかし当時その信者たちは、なぜか社会やマスコミが事件をでっち上げていると言い続けていた。私の友人の従姉妹がオウムの在家信者だったので、あの頃そんな話をよく聞いたものだ。こんなに明白なのに? なぜ? と私はとても訝しく思ったが、それこそが洗脳というものなのだろう。信者は教祖に恋愛感情にも似た心酔をしており、教祖が作った荒唐無稽な話を丸ごと信じてしまっていたのだから。
しかし時が経ち、ふと我に返り、やっと自分は洗脳され騙されていたと気づき自分の過ちを知ったのではないだろうか。
熱烈な恋愛感情も、それとよく似たところがあるのである。
しかしそのような熱烈な感情も、一緒に暮らしたり結婚したりするうちに変化してゆく。それこそが非日常が日常に変わっていくということだ。
恋が日常になった時、うまくいけばだんだん穏やかな愛情に変わっていくが、こんな人だったのか? と気づいて失望したりする場合も往々にしてある。やっと会社から疲れて帰宅し食事の支度していたら、夫が寝っ転がってスマホを見ている日が続いたらイラッとするだろうし、そんな時に無意識に鼻をほじっている姿を見たら唖然とするかもしれない。しかしまぁそんなことくらいなら喧嘩するくらいで済むだろうが、根本的な意見がぶつかったり束縛されたり嘘をつかれたりすれば、こんなはずではなかったと別れることもある。
むろん交際中でも何らかのきっかけで気持ちが冷める場合もあるし、相手からフラれることもある。
しかし時間が経つとそんな一連の出来事もただの想い出になるのは、多くの方も経験しているだろう。私自身も若い時フラれたことがあるが、時が経ってみると「なんであの時あんな人を好きになってたんだろ?」と思ったものだ。そして何年も経つと友人との笑いのネタにもなる。ウッソー、あの時は泣いたんだっけ?などと言いながら。
カルト宗教が嘘偽りだったと理解できた時のように、恋が冷めると我に返る。するとあの感情はまさに非日常のマジックだったと気づくわけだ。
しかし一方、理性が勝っている人、特に打算的な人はあまり感情には流されない。付き合うなら(結婚する可能性も考えてだろうが)お金がある人でなくては、とかエリートでなくては、とか自分のステータスが上がる人がいい、などと計算している場合もある。
それはそれである意味賢いのかもしれないが、打算は感情ではないので、そのような条件の人となかなか出会えなかったり、出会えても必ずしも好きになれるとは限らない。
だが人によっては相手の社会的条件だけで「好き」だと勘違いする場合もあるようだ。ただ、それは相手がエリートであることやお金がある部分を好きなため、本当に相手を愛していると言えるかどうかは甚だ疑問である。
なぜなら相手が自分にもたらす利益だけに着目しているため、自分が相手に何をしてあげられるか、守ってあげられるかなどとは考えていないからだ。つまりトクをすることだけを考えているわけで、それでは相手を愛しているなとどは言えないだろう。
とはいっても、お金が好きだからお金持ちのあの人がいいの、という女子は時々いる。私自身はそういう感覚はなんだか卑しい気がするが、処世術とも言うのかもしれないし、時には見栄もあるのかもしれない。
しかし、お金持ちであったりエリートであったりすることにこだわり続けていると、相手の本質を見誤ることがある。お金持ちの部分にフォーカスしているとそれが失われた時、呆然としてしまうからだ。例を挙げれば、本人、あるいは相手の親の会社が倒産、破産してしまうかもしれない。またどこかの御曹司でも、素晴らしいエリートでも、実は浮気性で嘘つきかもしれない。
人は往々にして若い時には相手の本質には気づけない。これは感情が先行している場合に多いが、理性が先行していても、相手の条件やうわべだけにとらわれて人間性を見抜けない場合もあるのだ。
ではどうしたらいいのだろう。もちろん付き合うだけならいろんな人と付き合えば良いと思う。それによって人を見る眼を養われていくし、失敗も(相手がよほどの悪人でなければ)あとで笑い飛ばせるだろう。
ただ結婚するなどの決断をする時には、感情と理性のバランスを取る事が大切だと思う。そのためには、自分の判断を疑うことも必要だと感じる。感情に流されがちな人には、周囲や他人の意見に耳を傾けることや、これでいいのかと自分の選択に対して常に自問自答してほしいし、理性が勝っている人、ある意味打算的な人にも、自分は相手の内面を好ましく思っているのか、それとも条件だけに惹かれているのかということを自分に訊いてほしいなと思う。その条件が失われても、その人を支えて生きて行けるか、という大切な部分をである。
とは言え失敗したって人生は長い。何度でもやり直しはきく。夢中になって失恋しても、ひどい男に騙されても、離婚しても、またやり直せばいいのだ。
ただ、充実した未来を願うなら、恋愛や婚活以外の生きがいがあるかどうかが、かなり重要なポイントだと思う。打ち込める仕事や、将来の目標、何か自分だけの夢があることなどだ。
もし今の仕事がつまらないのなら、他の何かを探すこともできる。最初は趣味でも夢中になれば変わってくるだろう。
情熱を恋愛だけに向けるのではなく、仕事や夢に向ける事で人生が豊かになるのは論を俟たない。
加えて、自立していることも自分の支えになる。自立していれば自信が出て、相手がお金持ちかどうかなどといったことにさほどこだわらず人間性だけを見て選ぶこともできるし、広い視野を持てるからだ。
恋愛だけにのめり込む時間も人生の中にあってもいいと思うが、長い目で見ればそれだけではつまらない。それに、結婚すれば幸せになるわけでもない。自分の仕事や生きがいは、恋愛に失敗しないために、また失敗しても立ち上がるときに大きな支えになるとことは断言できる。
さて、タイトルに恋愛は宗教だ、などと書いたが、多くの日本人の宗教観は曖昧だ。お正月の初詣は神社、お葬式はお寺、結婚式は教会、などと独特な宗教観に違和感を持たない民族である。
私自身もこれという宗教は持っていないが、自分の内面にある良心や、目に見えない霊性、神性は信じている。それは自分にとって神聖でも名前はない。教団もないので束縛もしない。また他人にそのことについて語ろうとも思わない。しかしそれはかけがえのないもので、私に指針を与えてくれる。
私はそんな内面的な神性を意識して生きることを、若い皆さんにもお勧めしたいと思う。