杉原 千畝
(すぎはら・ちうね / SUGUHARA・CHIUNE)
[一般財団法人 杉原千畝記念財団]
千畝さんの四男・杉原伸生さんを名誉顧問に迎え、松本洋代表理事が2018年10月1日設立。
杉原千畝の真実に迫り、人道主義活動を顕彰・支援する団体。
一般財団法人 杉原千畝記念財団
公式サイト/
https://www.sugihara-foundation.org/
千畝さんの四男、伸生さんの回想・・・
「いつもオヤジの帰りは遅かった。
昼間の仕事が終わると、どこかの教会で外国語を教えていた。
千畝は一生懸命昼夜働き、そのうち鵠沼に小さい店を買い、2階を教室にして、子供達に習字や英語を教えていた。下の店では幸子が文房具、化粧品、雑貨などを売っていた。あの時代は電球がすぐ切れるので、オヤジは名案だと言って農家の家を回っては電球を売り歩いたが、大した商売にはならなかったようだ。
オフクロが言うに「パパは店でお客さんがそばに寄っても何も言わないから、みんな帰っちゃうのよ。お世辞の一言でも言えばいいのにね。」と。オフクロの方が、なんだかんだ世間話をしながら物を売るのがうまかった。」
〜 再婚後(妻・幸子さん)の千畝さんには4人の息子さんがいたが、今も元気でいらっしゃるのは四男の伸生さんだけ。 三男の晴生(はるき)さんは白血病で7歳の時、亡くなった。
千畝さんは家族を養うため、様々な職種に就いた。
① 横浜港で荷揚げ
② 雑貨店の店主
③ 英語、ロシア語、習字の先生
④ NHK国際局編成部
⑤ 語学学校のロシア語講師
⑥ 商社勤務でモスクワに駐在(約20年)
最終的には好きな仕事に就けたのだろうか。
どちらにしても語学が身を助けてくれたに変わりない。
伸生さんの回想・・・
「僕が一度オヤジを訪ねてモスクワへ寄った時「ブキにご馳走してやろう。」と言われ、ロシア料理店にでも連れて行ってくれるのかと喜んでいたら、スーパーへ一緒に行き、ソーセージとジャガイモを買い込んだ。明日の分かなと思っていたら、ホテルのトイレにある電気コンロでお湯を沸かし、さっき買ったソーセージとジャガイモを煮ているのだ。これが千畝にとってのご馳走だったのである。生涯ケチで倹約家でとオフクロが嘆いていたが、このご馳走は一番美味しかった。」
〜 寒い寒いモスクワでの晩年を想像する。
60歳から78歳までである。
駆り立てた想いは一体何だったのだろう。
●1968年(昭和43年)
駐日イスラエル大使館参事官ジェホシェア・ニシェリと対面朝日新聞夕刊に「ユダヤ難民4000人の恩人―イスラエルが息子を留学に招待―」掲載(留学したのは四男の伸生さん)
ニシェリ氏の感激
「スギハラさん、私はこれまでビジネスで来日する度に、ずっとあなたを探し続けてきました。ようやくお会いしてお礼を言うことが出来ます。あなたに助けられた多くのユダヤ人はみんな、今も心からあなたに感謝しています。」
●1969年(昭和44年)
リトアニア・カウナスでビザを発給したゾラフ・バルハフティク宗教大臣と約30年ぶりの再会
こうして杉原ビザで助かった命が、助けた命と巡り合ったのだ。助けられた命は感慨ひとしおであったろう。しかしながら、なんとなく思う。千畝さんの胸中はどうだったのだろう。後悔の念は少しもなかったのだろうか。