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杉原 千畝

(すぎはら・ちうね / SUGUHARA・CHIUNE)

杉原  千畝の写真

[一般財団法人 杉原千畝記念財団]
千畝さんの四男・杉原伸生さんを名誉顧問に迎え、松本洋代表理事が2018年10月1日設立。
杉原千畝の真実に迫り、人道主義活動を顕彰・支援する団体。

一般財団法人 杉原千畝記念財団
公式サイト/
https://www.sugihara-foundation.org/

「ピークは僕が領事館を閉鎖して(命令が出ていた)9月1日期限だから、リガ、ベルリン行きの国際列車に乗って引揚げの直前まで約2週間、12、3日ね、12、3日の間だね。いよいよ出発する3日前か、ホテルへ家族と一緒に引っ越したわけ。
1日中、領事公邸におると、時間おかまいなしに難民が来るからね。
そしたら、ホテルにも来るんですよ。
それからいよいよ1日の朝、出発するカウナス駅、ホームまでやってくる。
困っちゃってね、断りきれなくて。
断ったこと? 
まぁ、記憶がないから、おそらくみんな書いてやったんじゃないかと。
断ったら、どこへ行くかね、可哀想だと。」

〜 こう淡々と答える晩年の千畝さんを思い浮かべる。 けれど決断を迫られた当時の千畝さんは、決して淡々とはしていなかったはず。

外務省の資料によれば、2,140通のビザを発行したとある。きっと寝食を忘れ、目の前で列を成す人々の為に、黙々とビザを書いていたに違いない。

千畝さんの生まれ故郷、岐阜県美濃市にこんな会がある。
【杉原千畝さんに学ぶ会】〜岐阜県美濃市で2016年に発足〜
杉原千畝さんの戸籍に記載している出生地が現在の美濃市であったことを縁とし、杉原千畝さんの命を尊ぶ偉業・生き方を市民の皆さんと学び、伝えることにより、子供たちへ希望のある未来と人道の心を紡いでいく。

杉原千畝さんが何故、政府の意図よりも他国の人の命を優先したか、その考え、行動はどのような過程で培ったのかを学び、想像することで、人生において何が大切なのか、生きるとはどういう意味があるのか、命とは何なのかを知るきっかけを掴み、市民に伝えていくことを目的としている。
なるほど。千畝さんという人間がどのように育まれたのかを想像するわけだ。
どんな想像に至ったのか興味があり、直接学ぶ会の皆さんに話を聞いてみると、みな一様に「自分に は出来ない。だから生い立ちや育った環境、学んだ場所に興味があるんです。」と言う。 ここで千畝さんの生い立ちを辿ってみる。

 ・税務署の職員だった父。転勤族であった。
 ・小学校二年から高校卒業まで名古屋で育った。  
 ・父は千畝に医者を望み、千畝自身は英語の教師を目指す。
 ・親に背いて早稲田大学に入ったため、仕送りもなく苦学生であった。
 ・在学中に外務省留学試験を受け、ロシア語留学生としてハルビンに渡る。

引越しが多かったとすると、周りを俯瞰する癖が身に付いたかもしれませんね。
親に逆らってまで自分の道を作ろうとしていたのか。とはいえ、当の本人は外交官になりたかったのだろうか。
そこで、大新田事務局長はどう思っているのかを聞いてみた。

「最初から外交官になりたかった訳ではないと思うよ。彼はお金を貰いながら語学を勉強できる場所を探していたんだよ、きっと。けれど、彼の情報収集能力には満州時代から定評があったらしくてね。どこかで外交官を本格的に志すというギアチェンジしたんじゃないかと思ってるんだ。」

〜 妙に納得する。たいがい好きな事と向いている事は違っていたりもするが、どこかで交わったのかもしれない。

続けて事務局長はこう話した。

「千畝さんの最初の結婚相手は白系ロシア人だったんだよ。クラウディア・セメノビナ・ドルフ という名前で信仰深いクリスチャンだった。千畝さんは妻に寄り添うためロシア正教会の洗礼を受けたんだ と思う。それにしても、10年以上も連れ添って別れなければならなかった理由はなんだったんだろうね。」

〜 クラウディアさんの写真での姿は着物だった。なぜか板についている。これこそ共生だと、 そう思った。千畝さんには慈悲と共生の心があり、自己判断での行動力があったのだ。 なんだか千畝さんに少し近付いたような気持ちになれた。

『あれから』・・・ 1947年(昭和22年)に帰国した千畝さんは外務省を退職した。