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杉原 千畝

(すぎはら・ちうね / SUGUHARA・CHIUNE)

杉原  千畝の写真

[一般財団法人 杉原千畝記念財団]
千畝さんの四男・杉原伸生さんを名誉顧問に迎え、松本洋代表理事が2018年10月1日設立。
杉原千畝の真実に迫り、人道主義活動を顕彰・支援する団体。

一般財団法人 杉原千畝記念財団
公式サイト/
https://www.sugihara-foundation.org/


想像してしまう。

『あの時』の心の葛藤を・・・
『あれから』の平坦ではない道程を・・・

私たちはいつも、彼の歩んできた道に寄り添ってしまうのだ

『あの時』とは・・・

1940年(昭和15年)7月、バルト三国リトアニアの首都カウナスの日本領事館前。
大勢の人々が切羽詰まった表情で何かを訴えていた。彼らはナチス・ドイツの迫害により、主にポーランドから逃れてきたユダヤ人たちで、日本の通過ビザが欲しいと嘆願してきた。

なぜ…
どうしてこんな目に遭わなければならないのか。
それは、とても厳しい現実の始まりだった。

前年の8月、杉原千畝は領事館を開くために領事代理としてカウナスに派遣された。リトアニアはドイツとソ連の中間という微妙な位置にあり、首都はカウナスにあった。 西隣のポーランドには当時およそ350万人のユダヤ人たちが住んでいて、そのうち約25万人が迫りくるナチス・ドイツの死の手から逃れるため脱出したのだ。

リトアニアに住んでいた多くのユダヤ人たちは、着の身着のままで逃げてきた同胞を援助したという。
一変したのは、1940年6月、リトアニアがソ連に侵略された時だ。ユダヤ人たちが生き延びる道は、シベリア鉄道で終点ウラジオストックまで行き、そこから船で日本に渡り、アメリカやカナダなどの第三国へ脱出するより手立てはなかった。
彼らの頼みの綱は、日本領事館の杉原千畝しかいなかったのです。

「その時」のことを千畝さんは、テレビのインタビュアーにこう語った。

僕が東京の方に「ビザを出してもよろしいか。」という電報を打って「いけない。」という返事が来て、そこからまた事情を言ってというやり取りしている頃、いろいろ文句が来るわけ。
難民をね、大量に寄越してもらっては困ると。
こっちはそんなこと構っていられないわけ。
知らん顔しとったわけ。
従って、無論シベリアを通って、ウラジオ、敦賀と来た。
そして日本側じゃ、内務省が困って外務省に文句を言ってくるわけ。
それが僕にはわかるわけ。
わかるけどしょうがないわけ。
人道主義だと僕は言っているわけね。
クビになったって構わんと。
だいたい僕でなくても誰かその場にいたら必ず同じことをやるだろうと。
他に方法はないんだと。
それで発行した。

〜 日本がドイツ・イタリアと三国同盟を結ぶ直前である。
この情報に接したユダヤ人たちは、日本に頼ることを危ぶみ独自ルートで脱出した者もあったという。
もちろん、千畝さんも日独伊の関係強化の動きを知っていたであろう…

それから約1ヶ月間、ビザを書き続けたと聞くが、さらに話しは続く。