第三話 海辺の坂の町

  丘に降り注ぐ光は、揺らめきながら青草を煌めかせていた。そして、風と戯れつつ海の水面を撫でていくと、波間に光の粒子を浮かばせては消し、消しては浮かばせながら、麗しい光を大海原へと行き渡らせていった。

  丘から一望する光と空と海の風景を描こうと、バッグのポケットから鉛筆を取り出して握りスケッチブックを開くと、さっき描いた天使の翼をつけた男の子が出てきた。風に煽られながら頁をめくっていくと、アニメーションのように男の子達の口元や手足や白い翼が動いていく。まるで、ある一人の天使が表情豊かに、何かを語りかけているかのようだった。ついさっき別れたばかりの男の子達が無性に恋しくなる。すぐに会いたい気持ちに駆られ、スケッチブックの男の子に微笑んだ。そしてゆっくりと頁をめくって一人ひとり見ていくうちに、なんとなく男の子達の表情が曇っていくような気がした。なぜだろうかと思いながら見つめていると、それは私の中に残像のように焼きついたある子ども達の姿が、重なりあっていたからだと気がついたのだった。

  それは、日本を発つ前日、私の担当するワールドニュース番組で、パレスチナ・ガザ地区での紛争を取材してきたフリーのイギリス人の報道カメラマンの写真と映像を特集した。そこに映された子ども達の姿が重なってきたのだった。

  爆風に晒された子ども達が、濁った霧のような白い気体の中から、粉塵で不気味な白さを全身に纏って、薄黒さと灰色の入り混じった路上に現れる。能面のような子ども達の白い顔に、底知れぬ物悲しい眼差しをした瞳が浮き上がっていた。その背景に、にわかに現れていく全半壊した灰色の建物とねじ曲げられた黒い鋼があった。そして瓦礫の陰で、跪く男が大きく映し出されていった。それは、粉塵で白髪のようになった父親らしき若い男で、その腕に赤ん坊が抱かれていた。

  赤ん坊を見下ろす若い男の横顔。骨ばった白い頬には、流れた涙が幾筋も跡を残し、粉塵がその涙の跡にこびりついて、白くまだらに浮き上がっていた。白い筋は、まるで表面が白く変質した独房の鉄棒のようだった。彼の胸に抱かれた赤ん坊のまだ冷くなっていない体温が、映像から伝わってくる。側には、幼すぎる死と父の苦悩を凝視して立ち尽くす、四歳くらいの女の子がいた。その子は、ぶら下がった赤ん坊の小さな指に、自分の指を絡ませて何かを呟いている。そして、特集の最後のシーンに描かれたのは、雲間から無数の光が降り注ぐガザ地区の街並みだった。彼はレンズの向こうのその光に何を感じながら映したのだろうか。破壊された町の様相とは、かけ離れた別世界の神秘的な美しい光。光は、何を、そして誰の心を照らそうとしていたのか・・・。

 — 痛む。私の心は、痛むのだ。抉られるようだ。それは、生身の私の深い嘆きだ —

  特集が終わり、切り替わった画面に鎧のように纏った白いスーツを着た私が映った。空気のしこりのようなものが喉を塞いでいた。それを潰すかのようにして、大きく息を吐き、第一声を押し出す。
「ガザ地区を長年にわたり追跡取材してきたカメラマンは、3日前、およそ1万枚の画像とおよそ5000本の映像を残し、ガザの町で亡くなりました。彼にとって人生最後の取材日となったその日に、今ご覧いただいたガザ地区に降り注いだ無数の光をカメラに収めました。このカメラマンは、レンズを通してその光に何を思い、願ったのでしょうか・・・」

  そして私は、ガザ地区の最新情報を伝え、次のニュースに移った。

 — この丘で、私は二つの光に触れることになる。それは大自然の光、そして心の世界にもたらされる超自然的な光。光は溶け合いながら、感性に触れた。そしてこの丘は、私にとって、思索の丘となったのだ。夜明け前、闇は最も深くなり日の出とともに空が白んでいくように、心の闇もまた同じ道を辿るのだろう。私もこの丘で、光の中で次第に明けていくのだった。

 — やがて、青草の丘で、私は物思いに耽っていった。
空の光を見上げながら、人間にとって光は愛なのだろうか、人と人の間に交わされる愛、自然と人の間に生まれる愛、様々な愛がある中で、その根源はどこにあるのか。そんなことを考えていた。

  この丘の大自然は特に私の心に深く語りかけ、父性や母性の愛を強く感じさせる。光は、慰めや勇気を与え、人を無邪気にさせ、素直にさせる。年老いた者を青春時代に引き戻すことも、傷つき疲れ果てた者に癒しも与えることもある。光は人間の心模様に寄り添いながら、その人にふさわしく希望ある方向へと導いてくれるものなのかもしれない。きっと私をも。

 — その時、青草の丘の岬でふいに強い風が吹いてきて、一瞬ふわりと体が宙に浮かんだ。その拍子にバランスを崩してそのまま後ろに倒れ込んだ。肩からリュックの紐がはずれて青草の上に滑り落ちると、風は瞬く間に白シャツの背に入り込み、音を立てて大きく膨れ上がり旗めく。
吹きすさぶ風の潔さは、春先から忙殺されてすっかり緊張して硬くなっていた私を伸びやかにさせていった。

  急に体も心も軽くなったようで、私は人が変わったかのように岬の先端に立つと、水平線目がけて「私は、処女航海に出るのだ!」と思わず叫んでいた。風は私の鼻の頭をこすると、猛スピードで体をなぞりながら二手に分かれて後ろへと去っていく。まるで帆船にでもなって帆を旗めかせて大海原を前進しているかのような気分だった。そんな私に太陽が「さあ、船を出せ!新たな時を刻め!新たな道を!」と語ってくるようだ。

  それに呼応するように私もまた声高らかに空に告げる。「空よ、あなたの光は尊い。あなたの愛をください。広く高い深い愛を。たとえ私が青空を見上げられない時にも、大海原を眺めることができない時にも、いつも光と愛を!」
風の力が及んで、突然潔くなり、唐突に願ったような気もする。でも素直な気持ちだった。そして心の底から湧き出してくるような願いであり、言葉だった。

  実は、窓のない放送局で来る日も缶詰になって働くのは、セキュリティー対策だと理解していても、長年のストレスだった。しかし職場環境に限らず、いつ心から青空が消え失せないとも限らない。人生の嵐は予期せぬ時に起こるものなのだし、少なからず私にもそうした経験がいくつかある。自分の心の底から迸るように生まれてくる言葉は、自分の力では計り知れない理由が必ずあるものだからだ。だからこそ、突き上げてきた本当の思いは、その時々、その瞬間に、大空を貫かんばかりに堂々と願っておきたいと思っている。特に、この丘の空は特別な大きな愛の光を降り注いでくれるのだから。

  あゝ、やはり心を打つ。この大空と、見上げる海の波間に浮かぶ煌めきは。

***

 — 丘を歩きながら、気持ち良さそうにそよぐ青草に触れたくなり、裸足になって青草の上を歩き始めた。踏みしめるたびに、草の香りが立ち上る。腰を下ろし水筒の水を飲むと、思いっきり手足を伸ばして寝転んで空を見上げた。

  すると白い雲は悠々と流れていき、風も自由自在に変化しながら頬を撫でていった。少しばかりひんやりとしたやさしい風が吹いてくると、目を閉じて、たおやかな風の音に耳を澄ませた。幼い頃、こんな風に海の辺りの青草の上で遊んだ頃のことが懐かしく思い出される。そして私の中で一つの光景が浮かんできた。

  丈の長い薄手の白いスカートを指で摘んで少しばかり上げる。そして靴を脱いで素足になると、滑らかな白い光を帯びた水面に入れた。ひんやりとした水は、汚れていた足を洗い、歩き疲れて傷ついていた足も、みるみる綺麗に治していった。なんだか嬉しくなって小川の辺りに座って、水の中で足をバタバタとさせる。水しぶきが上がって青草に散ると、キラキラっと光った。

  小川の辺りに咲く小花を摘んで花輪を作ると、頭に乗せてみた。振り返ると、新しい靴が用意されていた。綺麗なクリスタルの石が散りばめられた白い靴だった。その靴に足を入れると、小川のほとりに新しくできた小径を歩いていく。私はスキップの似合う少女だった・・・

  とそこまで来た時、目を開けた。半分夢心地で見ていた夢だった。いや、本当にそんなこともあったのかもしれない。がどちらにしても、こんなに可憐で愛らしい物語のような情景を、自分に当てはめて思い浮かべたことが我ながら微笑ましくなった。

  しかし新しい道を新しい靴を履いて歩くのを想像するのは、それだけで愉しかった。ただ私の靴は真新しいどころか、すり減っている。それにやや無茶をしながらこの丘に登ってきたこともあって、土埃に覆われている。それは私の生き方を物語っているとも言える。けれどこの小さな夢は、この丘で私が新しい道を歩き始める事を暗示した。

  この15年間、ほぼ毎日生放送のニュース番組を担当し、立ち止まることなく走り続けてきた。報道の現場は秒刻み。情報を得るにもごく限られた時間の中で正確に迅速に、しかも大量の情報を処理していかねばならない。その現実に常に答え、一刻一刻結果を出していく必要がある。一日が一時間のようにも、一週間が一日のようにも、一月が一日のようにも感じることがある。放送業界の時間の流れは特殊なのだ。そんな環境に長年いる私を力強いエネルギーと想像力が湧いてくる不思議な力が与えられる丘は本来の私自身の生命力を蘇らせていった。

***

 — 光はより深く私の心に交わり始めた。それは超自然的に光が心に触れていく、いわば秘められた時の刻みなのだろう。雲間から降りてくる光は矢の如く鋭く心に射られてきた。光の温もりに触れながら、光の矢の先端が心の奥深いところにまで達する気配を感じていた。この丘で感性がさらに研ぎ澄まされていったのかもしれない。それは空想でも幻想でもなく、心の中に起きた紛れもない現象。光の矢は、私の胸の中心に伸びていき、その先端から清らかな光の水が湧き出た。それは今まで味わったことのない、愛が充満している水のようにも感じられる。そして、胸の中は次第に愛の泉になっていくのだった。愛の泉は光に照らされながら、隈なく全身に行きわたり、光の水に触れるところから順々に清められていき、愛が行き渡った。そして魂まで清められていくような感覚があった。

  それから、光の水は確かめるように私の心に丁寧に触れていった。すでに完治していると思われていた傷跡に光の水が差し掛かった時、そこから痛みが出てきた。治ってはいなかったのだ・・・。その痛みに清らかな光が触れ、光の水が清めていく。こうして光に愛され、清められ、癒されていったのだ。煌めく金色の愛の泉の中で、至福の時を過ごした私は、暫くの間、ひたひたと愛に浸っていた。その愛の泉に大きな手のような光が降りてくると、私は産湯に浸かる赤子のように巨大な愛の光の手に掬い上げられ、ゆりかごに乗せられたかのように運ばれて、やわらかな光の衣に包まれた。

  そして、青草の丘の上に寝かせられたのだった。

  空から降りる太陽の光が、心の世界に触れた時、次元を超えて働く光とでも言おうか、心の目で見て感じとる抽象的な光と言えばいいのだろうか。私は丘の上に横たわったまま、じんじんと体に残る光のエネルギーの余韻を味わっていた。

  手を伸ばし、草に触れた。指の感触が今までと違っていた。風も光も前とは違って感じる。そうだ、もっと繊細にしかも心深いところに伝わってくる。視界は広がり、彩度も高くなっていた。空はより青く、雲はより白くなっている。それは私自身が、清められた証なのかもしれない。純度が上がったというべきか。

  人生は一度きりだが、何度も新たな道が開かれることはある。しかし新たな道を歩くためには、ふさわしい新らたな靴が必要なのだ。私はきっとあの少女に用意されたように「白い靴」が必要だったのだ。今、その不思議な光の癒しと清めと愛を受けて、「新しい白い靴」を履いたのではないか。

  ということは、さらに純度の高い感性で、すべての事象に触れていくということになるのだろう。目の前の大自然が、さらに偉大なものとして伝わってくる。心の痛みは、いつのまにか光を遮り、彩度を落としていた。光は私自身が触れることもできない痛みに触れて癒した。それは愛以外の何物でもないのだろう。愛された私から、今、愛が豊かに溢れていく。

  私は空を見上げた。そして「空に愛をください」と、この丘で願ったことが、早くも叶い始めていることを悟った。

***

 — 新しい靴を履いて歩き出した私の目に映ったのは、陽炎のようにゆらゆらと揺れる青草の中の「青い林檎」だった。あゝ、あれは私が東京の部屋から持ってきた林檎だ。リュックが肩から滑り落ちた時に零れ落ちたに違いない。しかし、部屋で見た林檎とは何かが明らかに違っていた。

  丘に佇む浅緑色の青い林檎は瑞々しい光を帯びた透明感を湛えていた。それに加え、何か中身がずっしりと詰まったような存在感があった。それは、内から漲る確固たる命のエネルギーのような力があり、林檎であるのにもかかわらず、林檎でないと思えてくるのだ。本当にこの林檎は、旅立つ朝、テーブルの果物籠にあった青い林檎なのかと疑いたくなる。私はリュックの口を開いて思わず中をのぞき込んだが、やはり間違いなく私の持ってきた林檎だった。林檎は、どこか神秘的な「一つの生命体」としてメッセージ送ってきている気さえする。いつまでも見つめていたい程、惹きつけられるものがある。

  凝視する私の視線を遮るように、雲間から白い光が青い林檎に降り注いだ。その瞬間の出来事だった。さすがにこれは目の錯覚だろうが、青い林檎の手前に、金色の円形の光が、ふわあっと浮かび上がってきたのだ。そしてその光輪の中に、翼を広げた真っ白に輝く鳩が現れた。それは一瞬の出来事だった。目を疑ったのだが確かにそこに平和の象徴である白い鳩が現れた。あまりに清らかで、何者かの化身のようで、何度も瞬きをしたが二度と現れることはなかった。

  しかし、錯覚であったとしても、なぜこの林檎に白い鳩が示されたのだろうか。すべてに意味を見出して生きてきた私にとって、この奇異な出来事を理解することは、私に課せられたことだと思えた。益々透明感をまして神々しい光を帯びていく青い林檎を目の当たりにしながら、私は我に返り、この林檎の存在を描かなければと思ったのだ。魂が入って生きているような林檎は、確実に一瞬一瞬を正確に、しかもどこか主体的に時を刻んでいるような気がした。この尊い一瞬を逃してはならない。急いでリュックのポケットからスケッチブックを取り出すと、鉛筆を握りしめ描き始めた。

  描いている内にわかったのは、この林檎が「あらゆる存在の命の尊厳の象徴」として、この丘で私の前に現れたということだ。林檎は、空であり、海であり、丘であり、地球であり、花であり、一人の人間であり、宇宙であり、「命あるもの」そのものであるということだ。それは愛されるべき尊い存在の象徴であるのだ。だから、この林檎を描くことは「命」を描くことに等しい。そして、描くことは「命を愛する」ことに他ならない。鉛筆を走らせながら、ふと聖書の一節が浮かんできたのだった。「我は在りて在る者なり」

  これは、神が神自身を表す言葉として記された言葉だった。そして「芸術は、我々に自然が永遠であることを、味わわせなければならない」というフランスの近代絵画の父と言われるポール・セザンヌの言葉も脳裏を過ぎった。

  刻々と変化する光を受けて表情を変えていく青い林檎を、私は夢中になって描いた。そして描きながら、多くの人達の顔が浮かんできたのだ。それは、取材で出会ってきたヒロシマで出会った被爆者達、川の中で亡くなり海に流れされていった被爆者達。ポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウで見た死すべき人として撮られたポートレートのユダヤ人の子ども達や大人達。命が大切にされなかった人たちの顔だ。私は、何枚も、何枚もひたすら描き続けた。描きながら、脳裏の片隅で考えていた。これから向き合っていくものは、こうした「存在の尊厳」を見つめることなのかもしれない。「存在」が真に救われるとは、どういうことなのかということを考えていくことなのかもしれないと。そして光は、彼らの闇にどのように働きかけるのだろうか。

  描き終わる頃、光は林檎をやわらかく包んでいた。その光が次第に細い光線となって、鉛筆を握る右手に移ってきた。光線はまるで人の指のようにやわらかく鉛筆を握る指に触れた。そして光は次第に広がり、右手を包み込んだ。その感触はおおらかで、あたたかく、愛する人にそっと握られているようで、深い愛を感じて、ふいに涙がこみ上げてきた。涙は頬を伝い、青い林檎に落ちていった。私の涙に濡れた青い林檎は、光に照らされて煌めいていた。

 — 一瞬、全ての音が消えていったような気がした。歌声が微かに聞こえてくる。どこか遠くに教会があるのだろうか。グレゴリア聖歌のような音の響き。瞼を閉じて聞いていると、空と海の悠久の時の狭間へと運ばれていくかのようだった。「永遠・・・」ふと永遠という脳裏をかすめた。光への畏れがそうしたのか。

  運んでいくよ 運んでいくよ
  小さき花よ 小さき花 愛の花を咲かせましょう。
  小さき花よ 小さき花 永遠の花を咲かせましょう。
  小鳥のように 小鳥のように 歌いましょう。
  小鳥のように 小鳥のように 祈りましょう。
  運んでいくよ 運んでいくよ
  きよらかな愛の歌を 運びましょう。

  すると、青い花びらが舞うかのようにひらひらと、青い蝶々が飛んできた。そしてゆっくりと降りてきて浅緑色の青い林檎にとまった。命の象徴として描いた林檎。そこに鮮やかな美しい青い蝶がとまったそのことは、命への讃歌、命への祝福のようにも感じとれた。その切り取られた美しい一瞬を描きたいと、すぐさま描き始めた。可憐な歌声は丘を巡っていた。暫くすると、青い蝶はふっと舞い上がると右手にとまった。それから不思議なことい青い蝶は逃げることもなく、私にとまり続けていた。

 — あゝ、歌声の言霊なのだろうか。「永遠」という言葉が頭から離れない。一瞬は永遠の長さに比べれば、なんと儚い時なのか。しかし永遠の中に一瞬の刻みがあるように、この一瞬の中に永遠があるはずだ。そう一瞬には果てしない永遠の奥行きの時が在るのだ。心の中で歌が生まれていく。夜明け前の小鳥たちが歌声で呼応し合うように。

  永遠よ この小さな手を あなたに 伸ばします。
  永遠よ その愛の手を 私に 伸ばしてください。
  永遠よ あなたのきよらかな愛の手は 私を光の小舟に乗せました。 
  永遠よ その風の呼び声に 私は 耳を澄ませます。
  永遠よ どうか 私の声を 聞き分けてください。
  永遠よ あなたの清らかな愛の歌声は 私を 光の海へ誘いました。
  永遠よ いつか 私を乗せた小舟を見つけたら。
      どうか あなたのもとへ 引いてください。
  永遠よ 私は 永遠の愛の港へ まいります。
  永遠よ 私は 一瞬の愛の中に 永遠の愛を見つけました。
  永遠よ あなたと結ばれるなら 私の一瞬一瞬を すべて愛に捧げます。」

  心の中で歌う歌声は、月の照らすやさしい少女の歌声だった。それは光の中で洗われて清められた私自身の新しい声なのかもしれない。新しい靴を履いてあの小径を歩き出した女の子の声か。

  この岬に誘ってくれたのは、あの石塀から顔を出していた子ども達だった。あの男の子達の瞳に映えた空と海は、なんと澄み切っていたことか。私は再びスケッチブックを開くと、あの子達を描いた絵を見ていった。せがまれて背中に描いた天使の翼を見て思った。あの子達は本当に天使だったのではないかと。あの瞳のように、この空をこの空のままに、この海をこの海のままに映せる瞳こそ、大切なのだと。私もそうありたい。歪んで見える瞳でなく、真を真に見える瞳を持ちたい。もっと深く、もっと高く、そしてこの丘で遭遇した光のように愛の瞳でありたい。そしてその瞳で世界のすべてを見つめるのだ。私の人生も私の愛する人も、日本に起きることも諸外国で起きることも。起きようとすることも、起きたことも。すべてのすべてを淀みない愛の瞳で見つめたい。どうしてだろう、どうしてだろう、涙が流れていく・・・・涙が流れていく・・・涙が流れていく。どうか私の瞳が洗われますように。

 — 急に疲れが出て、そのまま眠ってしまったようだ。あの瞬間、あの丘でいったい私に何が起きたのだろう。報道という現場で、すべての感性と感覚と知識と知覚を交差させ、一瞬一瞬に真摯に対峙してきた。人類がどこに向かおうとしているのか確かめながら、自分に何ができるのかと問いながら。仕事という一つの戦場で、時に鎧と盾を身につけて挑んできた私自身に、一つの変化が起きている。それは、瑞々しい命の息吹のようなやわらかな愛の世界。闇をも砕き、いや、闇を砕き溶かすほどの愛に溢れた世界があることを、知り始めているのかもしれない。あのどこからか聞こえてきた清らかな歌声は、これからの私の出会いを祝福する前奏曲だったのかもしれない。—-

  いつのまにか青い蝶はどこかへ飛んでいって姿を消していた。

  鉛筆とスケチブックをリュックのポケットに納めて立ち上がった。すると、肩から何かが滑り落ちた。それは、青いリボンだった。どうしてこんなところにあるのだろう。これはあの本の背表紙の青いリボンとそっくりではないか! 私ははっとした。なぜならリボンの青色は、まさにあの青い蝶の鮮やかな羽根の色と同じだったからだ。まさかあの青い蝶が落としていったのか。不思議だが、そうとしか考えられない。急いで立ち上がると丘を見回した。

  「どこにいるの?青い蝶よ、私を連れていって!」