第二話 海辺の坂の町

それから、私は地名と思われるRubanを探し始めた。旅行会社もそんな地名は見当たらないという。その後、思い当たる関係機関にも尋ねてみたのだが、返答はすぐに帰って来なかった。そうか、年月を経て地名が変わったということか。それとも地名ではないのだろうか。突き止めたい気持ちは募るが、時に仕事は早朝から深夜に及ぶ。これから新たに特別番組の準備が入るとなると、夏までに探し当てるだけの時間的余裕がなくなるのは目に見えていた。

3月半ばのことだった。放送局内の中庭の見える本屋の前で、フランスで働いているはずのディレクターとばったり会った。私たちは歓声を抑えつつも駆け寄り思わず肩を抱き合った。聞けば、彼女は4月から始まる大型新番組の制作に当たることになり、ひと月の滞在予定で東京に来ているという。ちょうど映像編集が一段落し、次の仕事にかかる前に少し時間の余裕ができたから、近い内に久しぶりに食事でもどうかと誘ってくれた。そしてその週末の金曜日、夜の私の番組が終わった後、放送局からそう遠く離れていないモダンで隠れ家的なこじんまりした中華レストランで彼女と落ち合うことにした。

彼女と初めて出会ったのは、10年ほど前の真夏のことだ。地方局にいた私が、来日したロシアの詩人を5日間密着取材した際、東京からロシア語の通訳者として派遣されて来たのが彼女で、映像編集の段階で再び出張して来てくれ、日本語では表現しにくい難解なロシア語の微妙な意味合いを、歴史的背景や生活文化の背景も含めて助言してもらい、なんとか日本語を紡ぎ出したこともあった。その後暫くしてから、彼女はイギリスで暮らし始めたので、会うチャンスはほとんどなくなっていたのだった。

その夜、私たちは再会を祝して乾杯すると、互いに離れていた期間に起きたあれこれを一気に語り続け、メインの料理を食べ終わる頃になって、漸く自分たちの近況を語り始めたのだった。そこで私は、古本屋で見つけた青い本と一枚のしおりついて話をした。ナイフとフォークで中華料理を食べる彼女は、香草の効いたエビをフォークに乗せると視線を上げた。「へえ、その話、面白そうね」その目は好奇心そのもので「ね、そのRuban、どこにあるのか、私に調べさせてくれない?」と切り出してきた。そういえば、彼女の祖父母はフランス人とロシア人だと聞いたことがある。そして、彼女自身もフランス人の母と日本人の父を持つ。フランス語は堪能だ。考えてみれば、もともと彼女はディレクターになる前は、通訳者であると同時に、有能なリサーチャーだったのだ。その立場で番組制作に携わるうちに、能力が認められてディレクターへと転身したのだった。ある報道番組のプロデューサーが、以前フランスに有能なリサーチャーがいて、小さな手懸りから居場所のわからなかった人物を探し当て、そのお陰で海外ロケにこぎ着けられたと懐かしそうに話してくれたことがあったが、それがまさに彼女のことだった。
それから一週間程経って、職場のデスクで新聞に目を通していた時、彼女から電話が入った。すぐに今度の金曜日の夜に会えると返事をした。そして再び新聞に視線を落としたのだが、思わず唇が緩み、笑みが溢れる。周囲の視線を感じた私は、新聞を片付けるふりをして席を立ち、廊下に出て壁に凭れると思いきり一人微笑んだ。

そして彼女と約束した金曜日が訪れた。彼女は既に店に来ていて、扉を開ける私の姿を目にすると、小さく手を振った。その夜の乾杯のグラスは鐘の音のように響いた。「この度は、ありがとう」そう私が言うと、彼女はするりと上半身を後ろに回して、椅子の背もたれに立て掛けていたA4版の封筒を真っすぐ差し出した。「食事の前に、とりあえず見てみて」紙面には文字と地図がびっしり書かれてあった。その書類は、まるで番組の海外ロケ用の資料さながらで、私は呆気にとられていた。彼女は淀みなく一通り説明するとさらに続けた。「今回のリサーチは、私にとっても幸運なことになったの」「どういうこと?」「私の祖母には一人妹がいたの。ドイツで暮らしていた彼女は、ある日恋人と駆け落ちして国を出たの。それが1942年5月のことよ。その後、祖母も暮らしてきた町を追われたことも重なって、その後妹の行方が分からなくなってしまったの。その妹が今回、貴女の探していたRubanという場所からそう離れていない山間の村に住んでいたことがわかったのよ。そこには今もそのお孫さんが暮らしていて・・・」その話には、第2次世界大戦と、民族間に起きた不幸な歴史が深く絡んでいた。尽きない彼女の話を聞きながら、彼女との再会は偶然であったのだろうかと思った。なぜなら、あの一枚のしおりの存在は、紛れもなく彼女の人生をも導いていると感じたからだった。

ウエイターが注文した次の料理を持ってくると、ウエイターは右手でテーブル中央に置かれた蝋燭を持ち上げ、テーブルの端に移動させた。その時一瞬、彼女の黒いビロードの上着の胸元が、濡れた艶やかな青色に見えた。それは私にあの青い本の表紙を思い起こさせた。ウエイターの料理の説明を聞いていた私の視線は、揺れる蝋燭の灯りに促されて金色に煌めくシャンパングラスの泡に向けられていった。長い間瓶の中に封じ込められ眠らされていた見えない気体が、栓を抜かれて新しい世界へと旅立つ。グラスという新たな場所で無数の金色の泡となると、シャンパンの香りの衣を纏いながら自由に舞い上がり、私たちのいるこの部屋の空気に溶け込んでいく。ほのかに金色に染められたはずの見えない空気に包まれて、青い本に挟まれた一枚のしおりによってもたらされた二人の時間が祝されているような気がした。ウエイターがグラスにシャンパンを注ぐと、私たちは次の再会を約束して、再び乾杯した。
 

── わからない、なぜなのかわからない。いつのまにか求め探していた私のあなた。
  何かに引き寄せられるようにして、私は向かう。私を待っている星の彼方へ クリス・ゲート ──

その夏、オリンピック開催の前日の朝、大きなリュックを背負った私は成田空港にいた。青い本としおりとスケッチブックは手荷物の鞄に入れた。いよいよRubanへと旅立つ。成田を発った飛行機の窓から見える上空の雲、そして遠のいていく日本の大地。モスクワ経由で目的地の空港までおよそ15時間。飛行機を降りると列車に乗り込んだ。そこから電車をいくつも乗り継がなければならない。私を乗せた列車は町中をしばらく走った後、やがて牧草地帯へと入った。小さな家の庭に干された洗濯物、放牧された牛たち。車窓から見えるゆっくりと流れる長閑な時の刻みが、秒刻みの仕事で錬り上げられた私の体内時計の一秒の長さをたおやかに引き伸ばしてくれる心地さを感じていた。

漸く列車が終着駅に着くと、駅前の停留所にすでにバスが停まっていた。いよいよ最後の乗り換えとなる。このバスが私をRubanに運んでいくのだ。砂埃で白っぽくなった焼けたゴムの臭いがする車輪を横目に乗り込むと、運転手に地図を差し出して行き先を伝えた。目的地まで1時間半。二つの山の峠を越える。バスは田舎道でガタガタとよく揺れた。陽気な運転手は歌を口ずさんでいる。客は運転手に親しげに挨拶して順番に降りていき、最後に私だけが一人残った。バスが大きくカーブすると、遠くに海が見え始めた。潮の香りとともに、町が少しずつ近づいてくる。私はしおりを取り出すと、似ている風景はないか、車窓の風景を目で追った。そしてバスが止まった。運転手は外を指さして「着いたよ」と合図した。リュックを背負うと私は運転手にお礼を言ってバスの階段を降りた。土と潮の匂いがする。大地に両足を降ろすとバスは走り去って行った。眩しい真夏の光線が降り注いでいる。ここが、Rubanだ。私はとうとうやってきたのだ。急に差し込んできた光が眩しくて、思わず額に手を翳して目を細めた。すると前方にまっすぐ伸びた路地の向こうに見える海に、雲間から一筋の光が降りていた。まるでそれは空から降りる光のトンネルのようだった。「あゝ光のトンネルを登りたい」と思った。あまりにも美しいクリーム色の光だったからだ。その思いは、確かに私の胸の奥から突き上がってきたのだった。

路地を抜けると、そこは小さな半島で湾が入り組んでいた。やはり思った通り、素朴だがどこか端正な面持ちで、全体的に乾いた岩と坂の町といった印象だ。でこぼことした石畳の坂道は石塀にそって複雑に絡み合っている。所々鮮やかな彩りを施している建物もあるが、ほとんどが薄い土色の石造りの建物と石塀だった。たまに玄関先に座っているお年寄りたちの姿を見る以外は、ほとんどすれ違う人はなかったが、路地から急に飛び出してきた日に焼けた男の子の瞳は、キラリと光って路傍に咲くひまわりのように眩しかった。この町をぶらぶらする来客がよほど珍しいのか、子どもが一人また一人と少しずつ数を増やして私の後をついてきた。振り返ると、そそくさと石塀に隠れるその仕草は、林の中で遊ぶウサギやリスの様子にも似て愛らしかった。くねくねと曲がりながら緩やかに連なる坂道を登ったり下ったりしていると、建物と石塀の間に岩肌を露わにした半島と海の風景が顔を出した。流れる雲の隙間から降りてくる光を受けて変化していく陰影は、時に町を思慮深い哲学者のように見せたり、屈託ない明るい少年のように見せたりした。私はいい構図に出会うと立ち止まって町並をスケッチした。すると子どもたちがその絵を見ようと集まってきた。子ども達の目は白い紙に生まれる風景に釘付けになり、出来上がると自分を描いてほしいとせがんだ。私は子ども達一人ひとりスケッチブックに描いていった。ふと思いついて、ある子どもの絵の背中に天使の翼を描き加えてやった。すると、子ども達は目をくりくりさせながら飛び跳ねて喜び、自分の絵の背中にも天使の翼を描いてくれと言った。全て描き終える頃にはすっかり仲良くなり、子ども達の方から小さな手を伸ばして私の手を握ってきた。そして子ども達と代わるがわる手を繋ぎながら石塀の坂の町を散策したのだった。
 

町を一巡し、子ども達に別れを告げると、「あっちに行って!」と盛んにみんなで上の方を指差す。それで向きを変えてその方向へ歩き始めると、さも嬉しそうに大きく手を振って石塀の町に消えていった。ところが暫く歩くと、その道は行き止まりになっていた。そして引き返そうとした時、細い小道が腰丈ほどの岩と岩の間にできているのを見つけた。子ども達はこの道を通っているのか、私は通れそうもない。しかし、この岩をよじ登って岩の上を歩いて行けば、なんとかその丘に辿り着けるかもしれない。岩に手を掛け、足を掛けて、登り始めた。手を上げる度、リュックの重みが肩に食い込んだ。そしてなんとか登り切り、最後に丘の大地に手をかけて顔を出したその時だった。私は息を呑んだ。眼前に広がるの草の群生の向こうに、パノラマ大の青い海が広がっていたからだ。突然開かれた黄緑色の丘に上がると、その先端の岬まで一気に歩いて行った。あゝあの子達はこの風景を見せたかったのか。それは乾いた岩の坂の町の様相とは全く異なり、限りなくみずみずしい世界だった。私はゆっくりと360度体を回転させて、円形に広がる大海原を見渡した。

天空を悠々と流れゆく、旅する青い風。すべてを吸い込んでいくような凜とした水色の水平線。地球を大きく包み込む眩しい陽光。私は体中にエネルギーが漲っていくのを感じていた。そして思い切り私は両手を左右に力一杯広げた。この空と海と風に私のすべてを委ねたい、そんな思いに駆られたからだ。そして静かに瞼を閉じると、大きくゆっくりと深呼吸を繰り返した。あゝ耳元で青い風が鳴っている。遠くで寄せては引いていく潮の音が聞こえる。私は自分をこれ迄生かしてくれた走り続ける心臓の車輪の音を聴こうとしていた。と同時に、内なる心の中心に歩み寄りたいと願っている自分に気がついたのだった。ふいにやわらかな風が私の額を撫で、やさしく前髪を包みながらかき上げた。するとまるで何者かが光の矢を放つかのように陽光が私の額の中心に向かって差し込んできた。光は的を射るとしだいに熱くなっていく。私はそこに光の意志のようなものを感じとっていた。これまで一度も感じたことのなかった強い光の意志だった。そう思った瞬間、私の中で何かが変わったような気がした。—- 何かが変わっていったのだ。私の知り得ないところで、何かが。